碧山相伴

 ふと、琴の音が耳に入った。ハッと目を開けた俺の視界に広がるのは白い天蓋で、音は外から聞こえてくる。窓から差し込む光は柔らかく、今までに味わったことがないほど平安だ。俺は目の上に腕を乗せてため息をついた。

 ひどい夢を見ていた。これまで見ていた光景が起きたら現実になっているのではないか、そんなことを思ってしまうような夢だ——だが、頭の片隅では、あれが夢などではないことは分かっている。俺は寝台の下にあった白い靴に足を入れ、そのまま部屋の戸を開けた。幸いなことに、さっきまで見ていた夢とは裏腹に体はどこも痛まず、全身に軽ささえ感じる。胸に空いたはずの穴もきれいに塞がっていて、あの痛みは何だったのだろうと首をひねるほどだ。それにここは静光楼ではないか。階段を降り、静かな台所を抜けて裏口から外に出ると、そこには石の卓に座って琴を弾いている楚碧がいた。

「……楚碧、」

 思わずこぼれた声に、琴の音色が止まる。顔を上げてこちらを見た楚碧は、にこりと笑って俺のほうに駆けてきた。

「燕山!」

 飛びついてきた楚碧の体重を受け止めた拍子に、俺は少し後ずさった。あの時たしかに失ったはずのこげ茶色の瞳が、この世の何にも勝る喜びをたたえてきらきらと輝いている。

「ああ、燕山!君を失ったかと思ったよ、もう会えないかと思った!気分はどうだい、どこか痛むところは?嫌なことを思い出したりしてないかい?聞いてくれ燕山、私はやったんだ、林淵凝にとどめをさしたんだ!十陽の力で焼き尽くしてやったんだ、伯父上にはできなかったけれど……でも私がやった!天下一の偉業だ、それにこれで君の犠牲も無駄にはならない——」

 楚碧は俺の首を抱きしめたまま、ひたすらしゃべり続けた。俺はその背中に腕を回したまま、じっと楚碧の言葉を聞いていた。何があったかは自分でも分かっているのに、どういうわけか涙が止まらない。静かに泣いている俺に気が付いたのか、楚碧はしゃべるのをやめて俺の顔をじっと覗きこんできた。

「どうしたの、燕山?」

「……お前……俺のために……?」

 どうにか絞り出した言葉に楚碧がうつむく。

「……そういうことになる。お前が林淵凝の手の中で果てたことが分かったから」

 楚碧の指が伸びてきて、そっと俺の頬を拭った。細くて繊細な、この世で一番きれいな指——

「馬鹿言うな……それじゃあ俺のせいで死なせたも同然じゃねえか……!」

 俺は膝から崩れ落ちた。俺の方から約束を破ってしまったというのに、それを責めないどころか俺を慰めてくる楚碧の優しさが逆に心に突き刺さるようだ。こらえきれずに嗚咽が漏れ、涙がぼろぼろと落ちて着物にいくつもの染みを作る。

「俺がぼんやりしていなけりゃ、お前が失明することはなかったんだ。その上考えなしに飛び出したばっかりに、あれじゃあ自殺もいいとこだ!俺は約束を破った、俺のせいでお前を傷つけた、なのに、なのにお前、だからって……!」

 涙で息が詰まり、言葉が出てこなくなる。俺は両手で顔を覆った。

「でも燕山、目を切られて、お前まで死んで、私にどうやって生きていけと言うんだい?それにお前を殺した張本人が目の前にいるというのに、どうして尻尾をまいて逃げ出せる?あれでよかったんだ、燕山、それにお前だって一人残されては生きていけないだろう?」

 楚碧は俺の前にしゃがむと、両方の手を添えて俺の顔を上げさせた。両の頬に触れる体温は、まぎれもなく何度も触れ合ってきた体温だ。楚碧は涙でぐしゃぐしゃになった俺の顔を優しく拭うと、そっと唇に口づけをしてにこりと笑った。

「これで良かったんだ。私たち二人とも、今生の別れには耐えられないんだから」

 俺は言い返すこともできず、再び泣き崩れた。楚碧は泣きじゃくる俺の体を優しく、それでいてすがりつくように抱きしめた。

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碧山相伴 故水小辰 @kotako

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