第141話 吉清の策

 梶原景宗や藤堂高虎に命じて船団の指揮をさせると、木村水軍を江戸湾に展開した。


 元々臨戦態勢で待機させていたのもあり、命令から実行に移すまでの速度が早い。


 目前に広がる江戸の町を眺め、水夫の一人が下卑た笑みを浮かべた。


「へへっ、お頭、早くこの町を略奪しましょうぜ!」


「馬鹿野郎! 殿のご命令だ! 略奪はおあずけ! 次の命令が下るまで、ここに待機だ!」


 水夫たちが口々に文句を並べる。


「ダメだダメだ! 町には攻め込んじゃいかん!」


 水夫の目に、懇願に近い涙が浮かんだ。


「でもお頭……」


「町はダメだ。だから……」


 梶原景宗の顔が、ふっと菩薩のように優しくなった。


「……だから、船を襲うので我慢しろ」


「お頭……!」


 梶原景宗の許可が下りると、水夫たちは嬉々として江戸湾内の船に襲いかかるのだった。






 木村水軍が江戸湾に展開したという報せは、加賀征伐を進めるべく伏見で指揮を執っていた家康の耳にも入ってきた。


「なに? 木村の水軍が江戸に?」


「おそらく、脅しのつもりでしょう。前田から手を引かねば、江戸に攻め込むと」


「ふん、木村め……。前田の次は木村を潰さねばな……」


 大坂の木村家に抗議をしつつ、軍を最前線の丹羽領に集めると、江戸からさらなる報せが舞い込んできた。


「たっ、大変にございます! 木村の水軍が江戸湾内の船という船をことごとく壊し、略奪して回っているとのこと!」


「なっ、なんじゃと!? 徳川の水軍はどうした!」


「木村家率いる南蛮船の前に、ことごと壊滅されたとのことにございます」


「なんということじゃ……」


 開発途上とはいえ、江戸は徳川の本拠地である。


 城下には家臣やその家族を住まわせており、それ以外にも町民や商人が多く住む、一大消費地である。


 その江戸で海運が閉ざされるということは、江戸の町を丸々兵糧攻めにされているに等しい。


 近隣の港──それこそ小田原から物資を揚げ、陸路で運ぶことはできるが、海運とは比べ物にならないくらい労力がかかる。


 遅かれ早かれ物資が不足することは目に見えていた。


「木村吉清め……江戸を干殺しにするつもりか……!」


 歯噛みする井伊直政に、家康は続けた。


「それだけではないぞ。これは、木村吉清からの表明じゃ」


 前田に攻め込むというのなら、それ相応の覚悟をしておけ、と。


 その気になれば、こんな回りくどいことをせずとも、江戸を焼き討ちにできるのだぞと、暗に示しているのだ。


 家康としても前田と本気でやり合うつもりはさらさらなかった。


 大軍を興して軽く小突けば有利な条件で和睦が出来ると踏んだからこそ、今回の加賀征伐に踏み切ったのだ。


 その前田と痛み分けとなっては、後に控えた他の大老と戦えるだけの余力を失ってしまう。


 そこまで読んだ上で、木村吉清は江戸を人質に取ったのだろう。


「おのれ……木村吉清め……!」


 ここまで策を弄し、根回しを行い、金と時間を惜しまず使って兵を集めたというのに、何の成果も得られず和睦を結ばされるとは……。


 なんと屈辱的なことか。


 怒りに燃える心とは裏腹に、どうすれば最も傷が浅くなるよう和睦を結べるか心中で計算した。


 そうしていくつかの和睦案をまとめると、前田との交渉役に南光坊天海を向かわせるのだった。

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