第43話 吉野の花見

 文禄3年(1594年)秀吉の命令で、吉野で大規模な花見が催された。


 この日のために側室たちに新たに着物を用意し、宿泊するための建物を建てさせたりと、吉野は慌ただしい有様だった。


 参加者は諸大名をはじめ、その正室や家臣、茶人や連歌師も合わせ、5000人が参加する一大イベントとなった。


「吉野は天下に名高い桜の名所じゃ。きっと見ものじゃぞ!」


 しかし、秀吉の期待も虚しく、当初予定されていた5日間の行程うち、3日も雨が降り続いていた。


 秀吉の落胆と怒りは凄まじく、奉行の三成や前田玄以が事態を収拾するべく忙しそうに動いていた。


 そんな中、吉清はというと、秀吉の雷を察知して早退はやびけをしていた。


 秀吉の雷を一心に受ける奉行衆に同情しつつ、縁側から外を眺める。


「せっかくの花見だというのに、雨が降ってしまったな……」


「いいではありませんか。わたくしはお前様と花見ができるだけで、嬉しゅうございますよ」


 吉清の肩にもたれ、紡が息をこぼした。 


 こうして夫婦で静かな時間を過ごすというのも悪くない。


 ふと、忙しく動き回る小坊主が目についた。


 その一人を呼び止めると、こちらへ手招きした。


「どうかしたのか?」


「太閤殿下が、せっかくの花見に雨を降らせるなと激怒しているのです。明日も雨が降るようなら、吉野の山に火をつけると……」


 小坊主の話に、吉清は顔を曇らせた。


 秀吉の暴走は、いよいよ手がつけられなくなってきている。


 これは秀次事件まで近いかもしれない。その時のために、今は出来る限り秀次に近づかないようにしなくては。


 しかし、それとは別に小坊主の話には興味深いものがあった。


「忙しいところ、呼び止めて悪かったな。明日は晴れるよう、儂からも祈っておこう」


 時間を使わせた詫びに、小坊主に小銭を渡す。

 小坊主は会釈すると、また忙しそうに早足で去っていった。


 ニヤリと笑う吉清に、紡が頬を膨らませた。


「……お前様。そのお顔は、また何か悪いことでも思いついたのですね」


「なに……儂はいいことしか思いつかん」


 ──儂にとっていいことしか、な。


 吉清は今後のための下準備に取り掛かるのだった。






 秀次は秀吉や北政所をはじめ、家族団らんの時を過ごしていた。


 しかし、秀次の顔は固かった。


 木村吉清の進言に従い、秀吉と拾に誓書を出したが、まだ秀吉の自分への態度は固い気がするのだ。


 北政所の傍らには、福島正則や加藤清正といった親戚衆が控えており、なごやかに笑い、話に花を咲かせていた。


 秀吉から話を振られ、秀次は引きつった顔で笑みを浮かべた。


 秀次に笑顔を向ける秀吉の顔が、笑みの面をつけているように見える。


 底知れない不気味さが、秀次の心に貼り付いた。


 加藤清正や福島正則が北政所に釘付けになっているのを尻目に、秀次は改まった様子で秀吉に頭を下げた。


「で、殿下に……申し上げたきことがございます」


「なんじゃ、急に改まって……」


「先ごろ、殿下には殿下と拾様に忠誠を誓う誓書を提出しましたが……」


「ああ、そうじゃな。それがどうかしたか?」


「や、やはり、豊臣家の跡取りには拾様がよろしいかと……」


 あまりに突拍子もない話に、秀吉は目を白黒させた。


「はぁ!? お主は何を言っておるんじゃ!?」


 突然、素っ頓狂な声を上げる秀吉に、北政所や加藤清正が訝しんだ。


「で、ですから、私は拾様が元服なさるまでの後見ということで……。あくまで拾様が豊臣家の次期当主ということで、いかがでしょうか……」


 秀吉は大きくため息をついた。


 秀次の勝手な行動に、秀吉は大きく失望していた。


 正式な謁見の場ならともかく、なぜ今言うのだろうか。


 限られた時間の中で、やっと一族が集まって親睦を深める場を用意したというのに、どうして水を指すようなことを言うのか。


 案の定というべきか、秀吉が声を上げたせいで北政所や加藤清正らの視線が集まってしまっている。


 秀吉は「なんでもない」と手を振り、北政所らの目を誤魔化した。


「なぜじゃ。なにゆえそのような話が出てくる」


「やはり、殿下の側室から子がお産まれになった以上、殿下としても拾様に跡を継がせたいのではないかと……」


「誰かがそう吹き込んだのか?」


 秀次の脳裏に吉清の顔が浮かんだ。


 しかし、それを言うべきか否か……。


 秀次が逡巡していると、秀吉が秀次の肩を叩いた。


「……悪かったな、秀次。お主にはいらぬ心配をかけた」


「殿下……」


「儂の跡取りは、変わらずお主じゃ」


 秀次の声に希望が戻る。


「では……」


「これからも、豊臣家のために力を貸してくれるか?」


「もちろんにございます!」


 足取り軽やかに北政所らの元へ向かう秀次を尻目に、秀吉は三成を呼びつけた。


「……三成、拾はちゃんと伏見城で面倒を見ておるのだな?」


「はっ」


「くれぐれも拾から目を離すでないぞ。豊臣家の未来がかかっておるのだからな」


「はっ……」


「拾もここへ呼べれば良かったのだが、流石に赤子に旅はさせられぬからの〜」


 と、秀吉は笑うのだった。




 秀吉の言葉を盗み聞きしていた秀次は、またしても気分が落ち込んだ。


 あの時、たしかに秀吉は三成にこう言っていた。


「くれぐれもから目を離すでないぞ。豊臣家の未来がかかっておるのだからな」


 ここまで言葉を尽しても、秀吉の心には届かないというのか。


 吉野の山を覆っていた雨が止むと、雲間から光が射し込んだ。


「お、雨が上がったか……!」


 機嫌が良くなる秀吉とは裏腹に、秀次の心には暗雲が立ち込めたのだった。






 一方で、雨が上がることで損害を被った者がいた。


 小幡信貞からの報告を聞き、吉清は驚愕した。


「何!? 雨が上がっただと!?」


 聞けば、吉野の僧侶が総掛りで祈祷を行い、無事に雨を晴らしたのだそうだ。


「では、吉野の山を焼き払うべく用意した大量の油はどうするというのだ!」


「まあ、売れるはずがないでしょうな」


 信貞の言葉に、吉清は地団駄を踏んだ。


「これでは大損害ではないか!」


 秀吉の“吉野の山を焼き払う”という言葉を真に受けての商機だったというのに、とんだ大赤字である。


 仕方なく、用意された大量の油は木村家で消費され、使いきれないものは格安で他の大名へ売られることとなった。


 こうして、吉清は“油売りの木村”と呼ばれることになり、油売りから転じて“陸奥のマムシ”と呼ばれるようになるのだった。

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