美食家

寒川ことは

美食家

 私は美食家だ。


と言っても食べるのは料理ではない。私が食べるのは文字だ。私はこれまでたくさんの文字を食べてきた。


 十年前に食べた日本の漁業に関する新聞の社説、内容は地球の気候変動で日本近海の漁獲量が減っていることについてのものだったが、あれはなかなかの味だった。一口口に含んだ途端に広がる豊潤な磯の香り。滑らかな舌触りがする海の豊かさを記した文。そして口の中を満たす深い出汁の味わい。しかしそこに、政府の対応の遅れを揶揄した、皮肉のこもったピリリと辛い刺激もしっかりとあって、クセになる社説だった。


 五年前に読んだミステリー小説もなかなかの味だった。シャキシャキとした緊張感のある食感の中に、モチモチとした甘い恋愛要素があった。そして謎が解決するにつれてだんだんと熱い肉汁が溢れ出し、最後はほろ苦い結末で終わる、何とも言えない味のある小説だった。


 しかし最近は文字の量は増えたものの、甘ったるかったり薄味だったりと、お世辞にも美味しいとは言えないものが街に溢れかえっていて、なかなかこれだ!と思う文字に出会えることはなかった。そしてそのことに、私はだんだんと焦りを覚えるようになっていた。なぜなら、私にはどうしても今すぐに、味わい深く美しい文字を探し出さなければいけない理由があったからだ。


 私には大切な妻がいる。高校三年生の時に同じクラスになって以来、今に至るまでずっと同じ時間を共有してきた、大切な妻だ。しかし、妻は昨年の晩に重い病を患い、今もまだ近くの病院に入院しているのだ。このままでは回復もなかなか見込めないだろうと主治医にはそう言われているが、私は少しでも妻に長く生きてほしいと願っていた。そこで考えたのだ。そう、私は美食家だ。そして美しい文字には病をも癒す力がある。つまり、妻に私が見つけた味わい深く美しい、意味のある文字を食べてもらうことで、妻の病を治してしまおうと私は考えついたわけだ。


 しかし、私の計画はなかなかうまくいかなかった。最近の街は、味わいのない言葉で溢れかえっている。SNSは短くてスカスカの、まるで水分の飛んだ食パンのような、パサパサな文字の羅列ばかりだった。水分がないからか、これらの文字はよく燃えた。電車の中吊りには油でギトギトで塩気の強い、見ているだけでも胃もたれしそうな誇大広告が、これでもかと吊るされていた。最近流行の小説も、なぜか主人公が大した苦労もせずに成り上がっていく、甘くて生温く、ブニブニした食感のものが多かった。


 毎日文字を探しては味見をする日々。しかしこれだという文字にはなかなか出会えず、そうこうしている内に、妻はだんだんと痩せ細っていった。けれど私は諦めなかった。妻に面会する度に、必ずや病を治せる文字を探し出してみせると、妻と自分に言い聞かせていた。


 来る日も来る日も、私は妻の病を治す力のある文字を探し続けた。そんな生活を送りながら二度目の冬を迎えたある日、私の力及ばず、妻はとうとう天国へと旅立ってしまった。妻を助けてやることができなかった無力感が、私に深い悲しみを与えた。泣けども泣けども、涙など枯れることはないと思った。


 悲しみに暮れながら妻の病室の片付けをしていた朝、私は一通の手紙を発見した。それは机の引き出しの二段目を開けた時だった。空っぽの引き出しに小さなメモ用紙が一枚。とても手紙と呼べるような見た目ではなかったが、私にはそれが妻が最期に残した手紙だとわかった。私のために震える手で一生懸命書いてくれたのだろう。手紙には鉛筆で弱々しく書かれた「あいしてる」の五文字だけがあった。私は妻の最期のメッセージを、涙で視界がぼやける中、震える指でそっと摘み上げ、そしてゆっくりと口元へと運んだ。


ーーーそう、私は美食家だ。


 私は一口でその文字を頬張った。噛めば噛むほどに広がる妻との思い出の味。それは甘酸っぱかったりほろ苦かったり、少し辛かったり、ひと噛みごとに様々な味へと変わっていった。妻と初めての旅行で行った北海道の草原の香りも、初めてのデートで手を繋いだ海岸の磯の味わいも、つまらないことで喧嘩した後の、気まずさの残るしっとりとした食感も、余すところなく全てをその五文字は私に伝えてきてくれた。そしてどの味も私と妻との大切な思い出の味だった。ああ、この味を妻と一緒に味わいたかったなぁ。そんなことを思いながら、妻が残した最後の文字を飲み込んだ私の口の中は、いつしか自分の涙の味でいっぱいになっていた。

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美食家 寒川ことは @kotonoha333

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