52
広い古民家には空き部屋が幾つかあり、凪とマナはその中の一つを寝泊まりする場所としてあてがわれた。
──マナが『人間だったとき』の記憶を蘇らせる。
凪は鑑のその言葉を、どのような感情で受け止めれば良いのか分からなかった。
マナがもともと誰であったのか──それについて自身が抱く直感は、疑念を抱きようがないほど強い確信を伴うものだ。まだ決め手となるような強い根拠があるわけではないし、間違っている可能性は大いにある。しかし不思議と、この予想が外れる気はしない。
真っ暗な部屋でマナと二人きり、寄り添って寝転がったまま互いに話すこともせず、気づけば指を繋いでいた。
彼女も僕と同じように、この不安とも期待ともつかない感情の中で怯えているのだろうか──繋いだ彼女の手が縋るように強張るのを感じて、ふとそう思った。
「マナ」
二人きりになってから、初めて彼女に声をかける。暗闇の中に、彼女の呼吸と、手のひらから伝わる体温と、自分が発したその声だけがあった。
「大丈夫。もう僕は君のそばから、絶対にいなくならないから」
これからどんなことがあっても、この言葉は絶対に嘘にしない。もう絶対に彼女を裏切らない。
もう絶対に、あの日を繰り返すことはしない。
少しでも安心させたくて、彼女の手を握り続ける。しかし触れ合う指から伝わる温もりに緊張を解かれ、彼女の寝息を聞くより先に眠りに落ちてしまった。
*
「いつまで気持ち良さそうに寝てんだよ。朝」
顔を踏みつけられる感覚で目が覚める。ここ最近で一番最悪な目覚めかもしれない。
霞んだ目を擦って開くと、仁王立ちした千鶴がこちらを見ていた。
「う……ん、今何時?」
携帯端末を取り上げられていて時間が分からない。このところ睡眠時間が不規則で体内時計も当てにならない。
「えー何時だろ」千鶴が少し考えてから答える。「多分六時過ぎぐらい」
眠気が取れないわけだ。おそらく四時間も寝られていない。
「早起きだね」
「アンタら今日の午後、下の街に行くんでしょ。その前までに色々済ませたいことあるからちょっと手伝って」
「ああ、分かったよ」
上体を起こしてマナの様子を見る。彼女はぽやっとした顔で天井を見つめていた。まだやっと目を開けた所という感じだ。
「さっさと顔洗って、下の駐車場にいるタカちゃんを手伝って」千鶴が言う。
こくりと頷き、ゆっくりと立ち上がって
「洗面はここを出てすぐ右」千鶴が縁側を指差す。「水は絶対に流しっぱなしにしないで」
「分かった。ありがと」
縁側に出る。昨日と違い、陽の光の下では劣化した建物の細部が詳細に見える。草の匂いが心地よい。不意に顔を照らす木漏れ日に、思わず目を細める。
「私も行く」後ろからマナの掠れた声。
「悪いけど、アンタは今からウチにつきあって。大好きな彼氏は午後までおあずけ」
「えぇ……」
背後で交わされる二人の会話を聞きながら辺りを見回す。洗面は今まで寝ていた部屋のすぐ隣にあった。
プラスチックの蛇口の下で水に濡れた金属の洗い桶が朝日を反射している。控えめに蛇口をひねると、桶に水が落ちてパチパチと音を立てた。
壁越しに千鶴とマナの会話が聞こえてくる。この家に遮音性は全く無いようだ。
「ほら、これアンタの」
「……いや、こんなの私使えないよ」
「だからその使い方をこれからウチが教えんの」
何の話をしてるんだ?──二人のやりとりに耳を傍立てているうちに、洗い桶には十分以上の水が溜まっていた。それに気づき、慌てて蛇口を締める。
掬った水に顔をつける。冷たくて気持ちいい。こうして汗を洗い流すのはいつぶりだろう。本当ならシャワーを浴びたいぐらいだが、贅沢は言っていられない。
まだ二人の会話が聞こえる。なにか揉めているようだ。昨日からなんとなく思っていたが、マナと千鶴は性格的に合わないような気がする。
「アンタねぇ、自分の身は自分で守れるようになんなきゃダメだよ」
「でも……私こんなの人に向けられないよ」
「呆れた。そうやっていつまでもあの彼氏に守ってもらうの?」
マナが無言になった。壁の向こうのやりとりが気になりすぎて、顔がビショビショのまま固まってしまう。
「……分かった」
蝉の声だけが響く時間の後で、マナが小さくそう言った。彼女は何に納得したのだろう。
洗顔が済んだ後でふと前を見ると、鏡に上半身が裸の自分が映っていた。昨晩千鶴に背中の治療をしてもらった後からずっと半裸のままだ。あの血まみれ穴だらけのシャツは寝る前に軽く水洗いして庭に干していたが、乾いただろうか。
土で汚れたサンダルをつっかけて庭に出る。肌に降る朝日が心地いい。
干していたボロボロのシャツに触れる。まだ湿っているが、夏場の太陽の下なら着ているうちに乾きそうだ。
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