50
「こんなもんかな」千鶴が言う。「おつかれさん。一度水で流して消毒しよう」
凪は噛んでいたタオルを外し、手の甲で脂汗を拭った。マナが心配そうにこちらを見ていることに気づき、咄嗟に笑顔を作る。
「……ありがとう」余裕を取り繕いながら千鶴に話しかける。「そういえば、どうして人間用の救急道具があるの?」
確か人間の仲間はまだいないはず。鑑からそう聞いた。
「ああ……」千鶴は少し考えるような沈黙を挟んだ。「生体部品も使ってるからね。それが損傷したときのため」
生体部品、あまり馴染みがない言葉だ。人間用の救急道具でメンテナンスができるものなのか。機械のことはあまり良くわからない。千鶴の体もどこかにそういった部品を使っているのだろうか。
振り返る。千鶴は血の付いた手先をタオルで拭いていた。
「ちょっと待ってて。水汲んでくるから」
彼女は立ち上がり、そのまま廊下に出ていった。それと入れ違いに鑑が入ってくる。
「待たせたな。茶でいいか」
少し驚く。昼間は『いつでも殺せる』なんて言っていたのに、なんだか鑑の行動はちぐはぐだ。彼の中で自分がどういった立ち位置の存在なのか、いまいちよく分からない。
「あ、お構いなく。もう少しかかりそうなので」どうせすぐには飲めないのでここは遠慮しておく。
「私も大丈夫です」マナも続く。
「マナは飲んどきな」千鶴の顔が廊下からひょこっと出てきた。「面倒くさがって消化系を使わないでいるとすぐに詰まって壊れるよ。たまに使うのが一番だめ。交換用の部品だって貴重なんだから、体は大事にしてよね」
マナが目を丸くする。知らなかったようだ。確かに彼女は理由がない限り食事や水分を摂らなかった。
「あの……じゃあ、いただきます」
鑑はマナの言葉にこくりと頷き返し、千鶴と一緒に奥に引っ込んだ。
広い部屋にマナと二人で残される。
「なんだか、すっごい親切」マナがこちらを向いて小声で言う。
「意外だよね。縛られて監禁ぐらいのことは覚悟してたのに」
「……うん」
マナが黙ってしまった。その表情には見覚えがある。アカネの救出に失敗した時に見せたものと同じ、自責の念に駆られているような表情だ。こちらの背中や頬を見ての感情だろうか。どれだけ自分が傷だらけになろうと、これは勝手にやっていることだから気にしてほしくない。
かける言葉に戸惑っていると、千鶴が金属の洗い桶を持って部屋に戻ってきた。
「おまたせー」
千鶴は先ほど同じ場所に座り、水の入った桶を床に置いた。少しオレンジがかった照明を水面がゆらりと反射する。
「ほら、背中洗うから後ろ向いて」彼女がタオルに水を含ませながら言う。
ふと、その手先が拭き残しの血で汚れていることに気づく。彼女の親切を受け取るのが段々後ろめたくなってきた。赤の他人の傷なんて触るのも気持ち悪いだろう。
「……うん、ごめん。何から何までほんとにありがとう」
「はは、どういたしまして。これからウチに何かあったらアンタに同じことしてもらうわ」
千鶴に背中を見せて腰掛ける。濡れたタオルが傷に触れ、しみるような痛みに思わず肩を強張らせる。
後ろから千鶴の小さな笑いが聞こえた。悔しい。
「なに? マナ」千鶴が突然マナに話しかける。「変な顔でこっち見て」
「別に……」マナが顔を背ける。
「やきもち焼いてんだ」千鶴が煽るように続ける。「まあこんな顔がいい奴とずっと一緒にいたらそりゃあ好きになるよね」
「そんなんじゃない……」マナは少し眉根を寄せた。
「へえ、じゃあウチがもらっちゃお」
千鶴が冗談めいた口調でそう言った後、会話が途切れた。
気まずい沈黙が流れる。どうしていいか分からず縋るような気持ちで泳いだ視線が、丁度お盆を持って部屋に戻ってきた鑑を捉えた──よかった。なんでもいいから喋って空気を変えてくれ。
そんな期待も虚しく、鑑は一言も話さず机に湯呑みを並べていく。だんだん彼がどういう男か分かってきた。
「凪くんは私以外になびかないよ」
マナがぽつりと呟いたその言葉が静寂を破る。まさか千鶴の冗談を拾うとは思わなかった。凪は今日で一番の恐怖を感じた。
「どうだか」千鶴は新しい
こいつを黙らせてくれ──鑑に視線を送るも、彼はこちらを一瞥した後で何事もなかったかのようにお茶を注ぎ始めた。
恐る恐るマナの表情を見る。先程までと違い、予想外に怒りのニュアンスは消えていた。この表情はまるで──
「ああ、ごめん」千鶴の声色が急に真面目なトーンに戻る。「そんなにガチで受け取られると思わなかった。アンタらがあんまり可愛かったから少しからかいたくなっただけ」
「千鶴……会ったばっかで揉めるなよ」鑑が呆れた声でようやく話し出す。「すまんマナ、こいつは本当に性格が悪くてな。無視していいぞ」
「いえ、別に怒ってないですから」マナがにこやかな顔を作って返答する。
千鶴は黙ってこちらの背中を拭いている。彼女は今どんな表情をしているのだろう。
「さて」鑑が話を切り出す。「ようやく落ち着けるな。もう遅いからそこまで長話にはしないつもりだが、今このタイミングで話しておきたいことがある」
「なんですか?」
「自己紹介さ。俺達が、そしてマナがどういう存在なのか。俺達は一体どこで生まれたのか」
その言葉に、緊張が一気に高まった。マナもはっとした顔で鑑を見つめている。
まさか鑑たちは、自分たちの制御系の出処を知っているのだろうか。
「マナ、お前はまだ自分の魂の生まれた場所を知らないと言っていたな。ただお前も、それに凪も、名前だけなら聞いたことがあるはずだ。行動管理クラウドの制御主体である超高度AI〝ヒギンズ〟だよ」
あまりにも身近すぎて逆にピンとこない。マナや鑑、そして千鶴の頭の中にあるものと、どう話が繋がるのだろう。
鑑は湯呑みを口に近づけ、一口だけ飲んでふうと吐息をもらした。
「ヒギンズは行動管理クラウドに繋がるセンサーから得たあらゆる情報を使って、その脳内へ現実世界のありさまを鏡のように写し取る。ヒギンズはその鏡像の世界にhIEを仮想配置して動かすことで、現実世界のhIEの適切な行動を決定している」
〝ヒギンズの箱庭〟の話か──マナと出会って行動を共にする中で、最早その仕組みを諳んじられるほど馴染みのあるものになってしまった。
マナは湯呑みに手を付けることも忘れて、瞬きもせずに鑑の話を聞いている。当然だ。彼女にとってこれは、ようやく辿り着いた自身の成り立ちについての話なのだから。
「ヒギンズによるhIEの行動の決定方法は一見シンプルだ。機体を取り巻く周囲の環境に応じて、〝人間〟にとって一番自然で適切な行動を機械的に選び取る──ただそれだけだからな。しかしこの〝人間〟というのは一体なんなんだ? 一見透過的に見える手続きに突然現れた、『適切な行動』を評価してくれるこの不思議な神託機械は、一体どっからやってきたんだ?」
彼の言う〝人間〟は恐らく現実世界を生きている人の実体を指している訳ではない。ここでいう〝人間〟とは、hIEの行動評価の処理に現れる、計算機の上で動かすことが可能な形式的に記述された人間のモデルのことだろう。
「〝ヒギンズ〟は個々に能力の違いがあるhIEを5段階の能力レベル〝AASCレベル〟に割り振っている。たとえばAASC2には子どもなど身体的弱者のかたちをしている機体が属していて、AASC3には一般成人男性レベルの能力を持っている機体が属している、といった具合だ」
全く同じ話を最近聞いた気がするが、いつのことだったか思い出せない。
背後でタオルが絞られ、水滴が水面に落ちていく音が聞こえる。
「ヒギンズは行動管理クラウドに制御できない機体にもこの〝AASCレベル〟を割り振っている。AASC1の故障機、そしてAASC0の〝人間〟だ」鑑はこちらに視線を向けた。「凪、お前が真面目に学校の授業を受けるタイプだったら、この辺の話はちゃんと把握してるな?」
鑑が意地悪く歯を見せて笑う。なるほど──凪は気まずい笑いを返した。
ちらりとマナを確認する。彼女の表情は緊張したままだ。
「冗談はさておき」鑑が話を続ける。「
個々の機体が置かれた文脈を織り込んだ適切な振る舞いの選択や、機体間の協調行動の実現において発生する状態の組み合わせ爆発──そんな話題に晴香が触れていたことを思い出す。
「ではどうしているのか?
ヒギンズはその時々の状況に応じて、
大事故──その言葉を聞いて嫌でも思い出す、あの日の記憶。
それと共に一つの可能性を直感し、凪は思わずマナの顔を見た。
「シミュレーション対象の人間の行動データが十分に蓄積されている状態で、なおかつヒギンズによる行動予測のための計算資源の配分が十分に行われた時、その内部に生成されるAASC0のモデルの挙動は、脳の各モジュールの入出力レベルで〝本物の人間と見分けがつかなくなる〟」
彼が何を言おうとしているのかは、すでに予想がついている。
鑑の太い指が、もう湯気の立っていない湯呑みをもう一度掴む。彼は残りを一度に飲み干し、机にそれをコトリと置いた。
「俺達は、AASC0──ヒギンズの頭脳という巨大な鏡に映し出された、この世のどこかに実在する、あるいは実在した人間の鏡像なんだよ」
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