第七話 世界の中心に立ち

「雨よ! 降りしきりたまえ……!!」


 教祖の手段と目的が逆転した、狂気の叫びへ答えるように、滝壺たきつぼが爆発した。

 比喩ひゆではない。

 内側から、ぶあつい水のベールが弾け飛んだのだ。

 そうして、巨大質量が、天空へと向かって飛び上がった。


 全長は二十メートルをゆうに超え。

 しなやかで、強靱きょうじんな、蛇にも似た巨体。

 手のひらほどもある無数の鱗におおわれ、牙を持つ怪異の王。


 〝竜〟。


 それは、意志の見えない両目を大きく開くと、


!!!』


 号砲ごうほうのごとき咆哮ほうこうを放った。


 ぽつり。


 肌を水滴が叩く。

 ぽつり、ぽつり、ぱらぱらぱら、ばらばらばらばら、ざああああああああああああああああああああああああああ――!


 降り出したのは大雨だった。

 降りしきるのは驟雨しゅううだった。


 いや、これをそんな言葉で表すことは出来ない。


「ぐっ」

「がっ」


 あたしも、教祖も、その場に膝をついた。

 雨が、それほどの物理的圧力をともなっていたからだ。


 バケツをひっくり返したような雨という表現がある。だが、足りない。これっぽっちも足りない。

 水圧によって身動きひとつ取れなくなる豪雨。


 海が雪崩なだれ落ちてきているにひとしい大瀑布だいばくふ

 これは、そういう〝雨〟だった。


「――――!」


 藍奈がなにかを叫んでいるが、その口元を読み取ることすら出来ないほど、雨の勢いは強い。

 言葉が通じないと察すると、彼女はありったけの力で崖の上を指差した。


 銃声。


 教祖が握っていた折れた刃が、なにかにはじかれてちゅうを舞う。

 それを握り取ったのは、山のような偉丈夫いじょうふだった。


 巨漢の男。

 砥上幻揶が、気がつけばあたしたちの側にいて。

 彼は、鷹のような眼差しで上流をにらみ。


「遅かったか」


 つぶやいた。

 確かにそう聞こえた。

 次の瞬間、一帯いったいが無音になる。

 ほんの一刹那ひとせつな静寂せいじゃく


 ――崩壊ほうかいする。


 上流の山が、滝壺をかこがけが、はげ山が、緑の山嶺さんれいが、すべてが崩れ、枯れた川に向かって一気に流れ込む。

 轟音とともに、茶褐色ちゃかっしょく濁流だくりゅう殺到さっとうし、すべてをみ込む。

 それが〝土石流どせきりゅう〟だと理解したのは、ずいぶんと後になってからだった。


「――――!」


 何事かをわめく教祖が、蒼次郞さんが、辰美さんが。

 目の前で、波に呑み込まれ。

 ――衝撃。


 ダンプカーに激突されたかのようなショックに、あたしの意識は途絶して――



§§



「――目を覚ましなさい、ニッカポッカ!」

「――っ」


 ハッと目を開くと、身体はまだ激流の中にあった。

 誰かの手が、あたしを掴んで離さないでいた。


 藍奈。


 彼女は小柄な体躯たいくを逆にかして、波濤はとうに耐え続けていた。

 いや、それだけではない。

 そんな理由で耐えられるような勢いの鉄砲水てっぽうみずではない。


 彼女を支えているものがいた。

 大岩に日本刀を突き立てて踏ん張る、巨漢。

 幻揶さんが、あたしと藍奈を、もろともに抱き留め、折れんばかりに歯を食いしばって耐えていた。


「なんで」

「同じ問い掛けを俺にまで許す余裕があると思うな。俺とて、これは法外ほうがいだっ」


 えるように言いながら、彼は満身の力であたしを抱き寄せる。

 流れから身を守るよう、岩陰いわかげに入り、あたしたちはなんとか一命を拾った。


「蒼次郞さんたちは……!」

「あちらで耐えていますが……」


 藍奈が示した先には、確かに彼らがいた。

 ほんの、十メートルほどの距離。

 辰美さんを抱きしめた蒼次郞さんが、倒木にしがみついて濁流だくりゅうに押し流されまいとこらえている。


「架城日華! ポンコツ巫女! あとついでにげん!」


 鋭い声が響き、あたしたちの目の前に、太くより合わされたロープが投げられる。

 振り返れば、濁流の外に春原すのはらあねさんが立っていて、こちらへとロープをよこしてくれていた。


「……櫟木いちぎ先輩、これは借りにしないぞ」

「黙ってろ幻の字。いいからそれ手繰たぐってこっちへこい! すぐに土石流の第二波がくんぞ……!」


 珍しく焦燥しょうそうをのぞかせる姐さん。

 幻揶さんは黙ってしたがい、自らの身体と、あたしたちに手際よくロープを巻き付けていく。


 ロープ……そうだ!


「姐さん! もう一本ロープを! 蒼次郞さんたちも助ける……!」

「ヴァカか! そんな猶予ゆうよは――クソ娘がッ!」


 姐さんの言葉を無視して、あたしは自分の身体に巻き付いたロープをほどき、蒼次郞さんのほうへと投げた。


「蒼次郞さんっ!」


 呼びかけると、彼はわずかにこちらを見て。

 笑った。


「おれ、わかったんだ!」


 空は荒天こうてん、竜は荒れ狂い、雨は降り続け、なおも水流は強さを増す。

 そんな絶望の只中ただなかにありながら。

 彼の表情は、どこまでもれやかだった。


 ……駄目だと思った。

 そんな表情をさせてはならない。

 これまでに幾度いくども見てきた。

 あの顔をした人間のすえがどうなるか、その眼差しがなにを見ているのか、あたしは嫌というほど知っていた。


「駄目だ、駄目だよ、蒼次郞さん!」


 叫ぶ、けれど彼は首を振り。

 胸の中、無言でひたすらに自分を見詰める少女を強く抱きしめた。


「これは、母さんがはじめた過ちだ。雨を降らせることに、それでられる金銭に目がくらんで、酷いことをした。罰当たりをやった。だから、むくいを受けるのは当然だ」


 だからって、あなたが責任をう必要はないだろうに。


「いいや、おれはどこまでいっても母さんの子どもだからな……それに、言ってくれたのは、あんただろう?」


 あたしが?

 いったいなにを?


「〝やりたいこと〟と〝やるべきこと〟が重なるとき、ひとは世界の中心に立つ」

「――――」

「誰だって、主人公になるときが来る。おれにとっては――いまがそのときなんだ」


 駄目だ。

 駄目だ。

 なんでそんな、覚悟を決めた目つきをするんだ。

 なんでそんなに、清々しく笑っていられるんだ。


「ずっとくすぶってた。やらなきゃいけないことから目をそらして。やりたいことに目をつぶって。でも、いまは違う。おれには、やるべきことも、やりたいこともあるんだ。明確に!」


 彼は見た。

 己が守る少女を見た。

 少女は見上げた。

 男を、まぶしそうに見上げた。


「よいのか? なんじには選ぶ権利があったのだぞ?」

「ああ、だから選んだんだ。辰美。初めて好きになったひと。どうかおれを」


 彼は。

 井森いもり蒼次郞そうじろうは。

 凄烈せいれつな覚悟とともに、告げた。


「おれを、食ってくれ」


「――心得こころえた。ならば、ともに死出しでの旅を行こうぞ。伴侶はんりょよ」


 少女が口を開く。

 有り得ないほど大きな、無数の牙が生えそろった口を。

 そうして彼女は。

 彼の首筋を。

 ――千切ちぎった。


「蒼次郞さんっ!!!」

「日華! 戻りなさい! おまえ、おまえは――まだ私の質問に答えていません! なぜ心霊バイトをやるのか、借金を返したいのか、死ぬのなら教えてから死になさい……!!」

「――っ」


 藍奈の一喝いっかつが、あたしを引き戻した。

 伸ばした手がちゅうを切る。

 ぐいっと強く、あたしの身体は水の中から引きずり出される。


「世話かけさせんなよヴァカどもめ」


 姐さんに抱き寄せられて、なんとか全員がおかに上がったとき。

 奇跡は、起きた。


「――――」


 蒼次郞さんの肉体をむさぼった辰美さんが、光へと変わる。

 〝青〟――いや、〝蒼い〟光に。

 それは、濁流から飛び立ち、荒ぶる空の〝竜〟へと一直線に進み。


 そして、その喉元を。

 逆鱗げきりんを、貫いた。


『――――』


 竜が動きを止める。

 落下する。

 かつて滝壺だった場所へ。


 そして。

 そして。


 今度こそ、土石流がはじけて――

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