第六話 巫女は月夜に求婚され、ただ袖なくした
青年の
昼間から酒を
ほとんど王様のように、
藍奈は彼のお気に入りで、多くの時間をともにすることを強要されていた。
……違う。
強要されてはいなかった。
相応の対価を抜け目なく、巫女は町長から
彼女は別段青年の
だから、いつまでもそんな日々が続くわけがなかった。
奇妙な日常は、
§§
月が綺麗な
虫たちが異様なまでに静まりかえり、空に開いた巨大な穴も雲に隠れる。
そんな夜。
ただ潮騒の音だけが響く中、業務から開放されたあたしたちは、言葉少なにアルコールを飲み交わしていた。
あたしは生ぬるい缶ビールを。
藍奈はポン酒を舐めるように
「日中の騒ぎが、嘘のようですね……」
巫女が、しみじみと呟いた。
昼間は大変だった。
〝生きえべすさま〟が突然取り乱し、大暴れをして多数の怪我人が出たからだ。
そのときあたしは網を引いていたので詳しくは知らないのだが、藍奈は現場に居合わせたという。
「わめき散らしていましたよ。なにかを見たと、ずっとね」
「それだけ?」
「町長を問い詰めてもいましたね。
「お互い大変だったわけだ」
「まったくです」
くいっと、彼女は
こんなとき、この巫女はひととは思えない
「この仕事も、そろそろ期日です。充分稼げましたし、
彼女が冗談のような声色で、そんなことを
大きな悲鳴が、夜の闇を切り裂いた。
立ち上がるのは、あたしが早かった。
けれど、駆けだしたのは今度も藍奈が先だった。
あてがわれた屋敷を飛び出し、悲鳴の出所――町外れに駆けつければ、案の定騒ぎが起こっていた。
乱闘……いや、暴れているのは、ただひとり。
青年が、狂乱の叫びを上げている。
どうやら暴れる青年を、住民たちが
「何事ですか」
藍奈の言葉に、人混みが割れる。
青年が、小柄な巫女に飛びつき、その手を取って泣き叫んだ。
「一緒に逃げよう、藍奈さん!」
「だから、何事ですか」
「見たんだ、ぼくは、おぞましいものを」
「
「この街の人間は異常だ……いや、こいつらは人間じゃない!」
彼は
対して、周囲を取り巻く人々は、恐ろしいぐらい物静かで。
ニコニコと、ただニコニコと微笑んでいて。
「水死体を
「……なんです?」
「こいつらは、町長は、水死体とセックスしてたんだ!
涙を流しながら、青年は祈る。
「海の底にいるんだ、沈んだ街の中を泳いでいるんだ、そいつらがアレなんだ、水死体がバケモノなんだ! この街のやつらは――」
水死体と人間が
彼は、狂ったように口にした。
「逃げよう」
そうして、繰り返す。
「逃げよう……違う、ぼくを連れて行ってくれ、女神さま! 死にたかったぼくを引っ張り上げてくれたように、今回も助けてくれ! ここから一緒に脱出して……そうだ、一緒に暮らそう!」
さも名案を思いついたという表情で、青年は必死に訴える。
「逃げて、暮らして……それで、どこか遠くに家を借りて、藍奈さんがお味噌汁を作って……子ども、子どももほしいよね!? ぼく、必死で働くから、だから!」
「私は――」
藍奈が、口を開きかけて。
けれど一瞬早く。
青年の身体を、無数の手が
彼が振り返る。
住民たちがニコニコと笑って、彼へと
「〝生きえべすさま〟は神様だ」
「〝生きえべすさま〟は海から来た」
「〝生きえべすさま〟をわしらは歓待する」
「「「なぜなら」」」
一様に歪んだ微笑みを浮かべ、住民たちは告げた。
笑みの奥に見える瞳は、どれも感情のない魚の目のようだった。
「〝生きえべすさま〟は、我らの財産だから」
ヒッと、青年が短い悲鳴を上げた。
許されたのは、悲鳴だけだった。
彼が自由に出来たのは、そこで、終わりだった。
住民たちの手が、
街の外へ逃げようとする彼を、どんどんと街の中心へと引き戻す。
伸ばされる手は、その場にいた住民のものだけではなかった。
増える。
どこまでも増える。増え続ける。
ぴょんぴょんと、ぴょんぴょんと。
両生類がそうするように、彼らは飛び跳ねてやってくる。
町外れから、海岸から、あたしたちがあずかり知らない場所から。
平べったい顔の、両目が大きく離れた、首筋の肉が、
産卵のため、
見間違えだろうか? なかには今日引き上げた、水死体の顔もあるようだった。
「ダーガン、ヒュードラ、ドッコイショー」
「ダーガン、ヒュードラ、ドッコイショー」
「〝生きえべすさま〟」
「〝生きえべすさま〟」
青年に逃亡は許されなかった。
逃げ出すことなど許されなかった。
なぜなら彼は住民たちの財産に過ぎず。
そしてこの街は。
――彼にとっての、牢獄だったから。
「あ――藍奈さん!」
伸ばされ青年の手。
「いっしょに、ぼくをつれて、街の外へ――」
救いを求め、必死に伸ばされた彼の手は。
「悪しき。貴様のような
「――――」
なにも掴むことなく、むなしく宙を切った。
青年の目が絶望に見開かれ、それすらも
あとにはただ、あたしたちだけが残されて。
「藍奈」
「――あれは、どうせ社会という地獄では生きていきませんよ。再び命を絶とうとするのが関の山です。ならばよほど、ここで役割を持ちながら強権を振るっているほうが、まだしも生きていると言える気がします。そう、思いました」
「…………」
「ふん。納得がいかないという顔ですね。何故ですか?」
それは。
「彼は、ここでなら生きていけるの? それが彼の――藍奈のやりたいことだったの? 藍奈は、それで胸が張れるの……? 本当に?」
「……張れますよ」
月に照らされた美しい巫女は、薄い胸をあるだけ
どこかけだるげな声音で、こう呟くのだった。
「
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