第19話 生きる理由を他人に依存するな

 白い空間だった。寒くもなく、暑くもなく、ぬるいそよ風が吹く何もない空間に、エンリーケと母とエマだけがいた。エンリーケは家族との久しぶりの再会を喜んだ。

 「母さん、エマ、会えてよかった。ここにはもう誰も怖いやつらはいない。やっと三人、一緒にいられるな」

 「エンリーケ、ずいぶん大きくなったのね。あなたには苦労かけたわ。いつも私たちの心配してくれて、それなのに私はあなたに何もしてやれなくて……」

 「お兄ちゃん、こんなカッコいい人だったんだね。あたし、小さかったからあまり覚えてなかったんだ。会えて嬉しい」

 そういえばエマはまだ小さかった時に生き別れたままだった。今ではすっかり美しい娘に育って、母親に似ているな、とエンリーケは思った。

 「エマ、すっかり美人になってて驚いたぜ。でも面影ある。母さんにそっくりだからエマだってすぐわかった」

 「美人って言ってくれるのは嬉しいけど、美人でも得なことなんか一個もないよ。だって……」

 そういうとエマは下腹部をさすった。

 「あたしたち、あの男たちに捕らえられて、代わる代わる犯され続けていたの。あたしが犯されるのは慣れっこだけど、エマはまだ処女だから、可哀想だった」

 母は、エンリーケにとって最も聞きたくなかった真実を話した。エンリーケの頭に血が上る。

 「何だって……?!あいつら……!くそ、殺しても飽き足りねえな!」

 「だからずっと死にたかったんだ。だから、お兄ちゃんに助けてもらっても、こんな体でいつまでも生きていたくなかったから、あたし、お兄ちゃんを庇ったの。あたしが死んでお兄ちゃんが助かるなら、一番いいんじゃないかって。お兄ちゃん、助けようとしてくれたのに、ごめんね」

 「エマ……。母さん……。ごめんな、俺が犯罪組織なんかに入らなければ、堅気の仕事を続けていたら、こんなことには……」

 エンリーケは組織に入ったことを後悔し続けていた。悔やんでも悔やみきれない。だが、そんな彼の気持ちを汲んで、母は彼に感謝した。

 「それでも、あなたのおかげであたしたちは生きてこれたの。あなたがいつも仕送りしてくれたから。たとえ悪いことをして稼いだお金だったとしても、あたしたちは感謝してた。なんでも悪いほうに考えるのやめましょう?あなたはよく頑張ったわ」

 そう言ってもらえると、ほんの少し自分の人生が報われるような気がした。

 「でも、これで親子三人、ずっと一緒だ。一緒に天国で幸せに暮らそう」

 エンリーケが母子を抱きしめようと伸ばした手から、母子はするりとすり抜けて、立ち上がり、二、三歩後ろに下がった。

 「それはできないわ、エンリーケ。あなたは生きるの」

 「え……?」

 するとエンリーケと母子の間の地面が割れ始め、引き裂くように水が溢れ出し、見る見るうちに川になった。

 「お兄ちゃん、ここであたしたちはお別れ。遠くから、ちゃんと見守ってるから」

 「あなたは生きて、これまでの罪を精一杯償いなさい。それがあなたの、残された人生なの」

 「嘘だ、ここでお別れなんて、なんでだよ?!そっちに行かせてくれよ!!」

 溝は広がり、川はやがて大河になり、母子の姿がどんどん小さくなってゆく。

 「生きて罪を償いなさい、エンリーケ」

 「罪を償って、天国でまた会おう、お兄ちゃん」

 「かあさあああん!!!エマああああああ!!!嫌だ、行くなあああああ!!!」

 次に視界に飛び込んできたのは、白い天井と、そびえ立つ輸血パックや点滴のポールだった。口には人工呼吸器を取りつけてある。

 (ああ、俺、生きてら……。母さんとエマのところに行きたかったな。誰か運びやがったな……?あいつらに電話しなきゃよかったな……)

 身体がずっしりと鉛のように重く、指一本動かせない。諦めたエンリーケは、再び夢の中に落ちていった。

 二週間で集中治療室から個室の病室に移されると、ファティマとヴィクトールが見舞いに来た。エンリーケは未だ回復しない全身のだるさのせいか、再会を素直に喜べなかった。

 「やっと面会できたな。生きててよかった、エンリーケ」

 「ずっと祈っていたの。どうか助かりますようにって」

 エンリーケは彼らを突き放す。

 「死ぬつもりだったのに、なんで助けた?」

 それを聞いてヴィクトールが憤慨気味に答える。

 「そう簡単に殺すかよ!お前には俺達を裏切った罪を償ってもらうぜ!めっちゃキレてっからな俺。よくも殺そうとしてくれたな」

 「許せるのか、俺を?」

 「完全回復して俺達とまた一緒に逃げるなら、許してやらんこともない」

 エンリーケは力なく笑った。

 「お前、どこまでも優しいよな。あれだけのことをしたのによ……」

 「お金の心配はしなくていいからね。医療制度いっぱい使って、あたしたちもお金いっぱい用意したから、何も心配しないでゆっくり治療して」

 「お前たちが治療費払ってくれてるのか……。悪ぃな」

 ヴィクトールはエンリーケにこれまでのことを訊いた。なぜ裏切ったのか、その間どうしていたのか。エンリーケはぽつぽつと話し出した。

 「あの日、買い物に行ったとき、車の窓越しに撃たれて、動けなくなったところを誘拐されたんだ。そして家族の写真をちらつかせられて、『家族を殺されたくなければ、ヴィクトールとファティマを殺せ』って言われた。悩んだよ。罠だと解っていたし。でも、俺さ、ずっと家族に仕送りし続けていたんだ。俺はずっと家族のために金を作って、家族のために生きてきた。だから、お前たちよりか、ギリ家族の命のほうが勝っちまってな。言うことを聞いたんだ。ああするしかなかった。でも、何とか、何とかして、お前たちも、家族も、両方救えないか、必死に考えていたんだ。でも俺、馬鹿だからよ。しくって、家族を殺されちまった。俺はキレて、奴らを皆殺しにした。そこからは、お前たちの知るとおりだ」

 ヴィクトールには家族がいないので、エンリーケの家族を想う気持ちは理解できない。だが、彼が家族のために生きていたことは知っていた。そこで、エンリーケの苦しい葛藤を理解できないまま、そのまま認めよう、赦そうと考えた。

 「解った。辛かったな。信じるよ、お前を。お前がそう簡単に俺達を裏切るわけないと、なんとなく感じてた」

 エンリーケはすうっと大きく息を吸い込み、盛大な溜め息をついた。

 「俺、生きる意味、亡くしちまったよ。あのまま死んでりゃよかったんだ。なんで助けたんだ」

 「なんでって……、大変だったんだぞお前。あと五分発見が遅かったら死んでたんだぞ」

 「むしろあのまま死にたかった」

 「エンリーケ!」

 ファティマはその態度に腹を立てた。

 「必死に助けたのに、何で生きていることを喜べないのよ!生きててよかったじゃない!」

 エンリーケは窓の外へ視線を移し、ファティマを無視した。ファティマはヴィクトールを引っ張り、今日のところは帰ろうとした。

 「明日もまた来るから。死のうなんて考えちゃダメ!ゆっくり寝なさい。早く元気になって!」

 「行こう、ヴィクター」そう言って、病室を後にした。そして、廊下ですれ違った看護師に、「六二四号室のダニー、希死念慮があるから絶対に死なないように見張っててください。拘束しても結構です」と伝えた。

 案の定、それからエンリーケは何度も輸血の針を抜いたり、食事用のフォークで自傷したり、死に取りつかれて自殺未遂を繰り返した。病院はエンリーケを拘束し、強い抗鬱剤が投与された。

 何度も夢に見る、母とエマが死ぬ瞬間。母とエマが乱暴されるシーン。それが彼を苛め、彼は家族のところへ逝こうとした。

 「殺してくれよ……。俺なんてもう生きてても仕方ねえだろ……」

 病室にヴィクトールとファティマが見舞いに来ても、彼は心を閉ざしていた。

 「お前、何度も死ぬのやめないらしいな」

 「ほっとけよ。ほっといてくれたら俺は死ねるんだ」

 「なんでそんなに死にたいの?」

 エンリーケは拘束具を引きちぎらんばかりに暴れながら怒鳴った。

 「だから!!俺はもう生きる意味ねえんだって!!家族はもう死んだ!!俺の生きる価値なんかねえんだって!!」

 「生きる理由を他人に依存しないで!!」

 ファティマが急に怒鳴るので、エンリーケは動きを止めた。

 「あなたが生きるための心の支えを失ったのは、悲しい出来事だと思うわよ。でも、あなたは生きていた。死ななかった。あたしたちは間に合った。その意味についてもっとよく考えて!あなたにはまだ人生が残っていたの!心の支えなんて何でもいいのよ、失ったからって死ねるもんでもないわ!ならなぜ生きるのか?生きる理由を他人に依存すると、その人が居なくなったら支えを失うのは当然じゃない!人はいつまでも生きていないのよ?心の支えは、生きる意味は、自分の中に作るの!自分が生きるのにちょうどいい理由を、自分が生きるのに必要な分だけ、自分の中に作るのよ!」

 エンリーケはファティマの説得が一度では咀嚼しきれなかった。だが、その真剣な演説に、心を打たれた。生きる理由を、自分の中に作る……?

 ヴィクトールにはファティマの言いたいことがわかるような気がした。彼女は、実の親に傷つけられた。誰も助けてくれない人生を、必死に努力して自分の力で生き抜いてきた。自分の中に生きる理由を定めたからこそ、彼女は勉学に励み、天才と呼ばれ、若くして大学を卒業できたのだ。彼女は天才ではなかったのだろう。きっと血のにじむような努力の末に、天才の肩書を掴み取ったのだろう。それは、誰も助けてくれなかったから。彼女の中に、強く心の支えを立て、生きる理由を見出したから。

 「ゆっくり考えなさい。死のうとしたら、赦さない」

 「待ってくれ」

 ファティマは立ち去ろうとした。それを、エンリーケは思わず引き留めていた。

 「じゃあ、俺は、何を生きる理由にしたらいいんだ?俺、馬鹿だからさ、自分じゃ全然わかんねーよ。ヒントをくれよ。ちんぷんかんぷんだ」

 ヴィクトールはエンリーケに助け舟を出した。

 「何か自分の趣味とか、好きな物とか、生きる目標を作ったらいいんじゃねえか?」

 「お前たちと一緒に逃げることか?」

 「それじゃ意味ないだろ。ほらまた、生きる意味を他人に依存してるぜ?」

 「解らねえ……解らねえ……」

 重い沈黙が病室内にたちこめた。エンリーケの導き出す答えを、ヴィクトールもファティマも見守っていた。

 エンリーケがふと顔を上げると、ヴィクトールとファティマがピッタリと寄り添っていることに気付いた。はて、この二人は確か近づくこともできなかったはず。そういえば、やけにベタベタくっついているような気がする。

 「そういえばお前ら、やたらくっついているよな?ファティマ、男性恐怖症はどうしたんだよ?」

 「え?ああ、あー、あれ?あれは、その、治った」

 「治ったの?いつの間に?」

 ヴィクトールがばつが悪そうにエンリーケに説明する。

 「実は、俺たち、付き合ってるんだ……。なんか、成り行きで……」

 エンリーケはポカーンと口を開けてしばし呆然としていたが、やがて理由のわからない怒りが込み上げてきた。

 (こいつら……俺がいない間に……くっついたのか?いつの間に……!)

 「お前ら……俺が死ぬほど苦しんでいる間に、何くっついてんだよ……!俺をのけ者にしてお前ら……!クッソ!クッソ!腹立ってきた!」

 「お、落ち着けエンリーケ、ホントに成り行きだったんだ。いろんな事情が絡んでな?」

 あーーーーーっ!!!とエンリーケは叫んだ。

 「生きる理由見つけた!ぜってえ俺も可愛い彼女見つける!!ファティマみたいなメンヘラの女の子見つけて俺好みの女に育てる!!ちっくしょう!!」

 元気な雄叫びを聞いて、ヴィクトールとファティマは思わず笑った。

 「大体な、ヴィクターみたいな陰気なエロゲオタクが俺より先に彼女作るなんてこと自体おかしいんだよ!俺のほうがイケメンだし!」

 「エロゲオタクってなんだ?!適当なこと言うな!」

 「ああ、幸せになりてーーーー!!!」

 それからというもの、エンリーケは見る見るうちに回復し、入院から二か月後には無事退院したという。

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