ハルジオンが牙を剥く 5

 そこは、不思議な空間だった。

 身体の重さは消失し、鉛のようだった手足は軽さを取り戻していた。現実のようで現実ではない。地に着いているのに僅かな浮遊感。今にも崩れそうな足元。


 頭の奥に走る電気がパチリと弾け、僕は目蓋をあける。


 ザリザリと映像じみた光景が薄れていく。

 不快感は瞬時に順応することで気にならなくなる。ぼやけた輪郭がカタチを成していく。

 左右を埋め尽くす本棚――見あげても天辺は見えない。

 幾重にも重なる角――ひとつひとつが情報を格納した書架。

 紡がれた道の先――かたむき刺さる割れた塔。


 ひとり。

 広く、それでいて窮屈きゅうくつな空間に、僕は一人きりで立っていた。

 静寂があたりを包む、人の気配を内包しないデータ倉庫。即ちここが『リラシステム』の真髄。そこかしこに並ぶ書架も、棚上に積み上げられた本も、足元に落ちているページの切れ端も、すべてが人の記憶。

 けれど、今の僕はそんなものどうでもいい。

 自分の願いに、赤の他人の記憶は必要ない。いいや、自分の本だって開く必要はない。


 指をひろげ、握り混む。

 ゆっくりと歩み、通路のさきを目指した。

 といっても終点はない。どこまでも続く変わり映えしない風景は、きっと終わりがないほどに膨大だ。


 逆を言えば、ここが終点でもあるのだろう。彼がここにいることが、何よりの証拠である。

 斜めに突き刺さる塔のふもとに、見覚えのある男が立っていた。


 声の届く距離で、足をとめる。

 僕と男は初めて相対した。


「妹さんは?」


 手始めにそんな疑問を投げかけてみる。

 すると、男は敵意のこもった視線をわずかに揺らした。


「マナは今ごろ、端紙リオと対峙してるところだろうよ」


 周囲を見渡しても、端紙はいない。ということは、彼女も彼女でどこか別の場所にいるということか。

 ならば、腰を落ち着けて話ができる。


「詩島ハルユキ」

「片踏キョウ」


 名を口にする。

 どちらも一歩も動かず、視線だけで互いを押しとどめていた。「そこからすこしでも近づけば容赦しない」と、向けられた警戒を肌で感じる。

 前髪から覗く瞳で睨めつけるキョウが、問いかけた。


「ひとつ、解せないことがある」

「なんだい」

「あの幽霊に、そこまでする価値があるのか?」

「……なんだそれ。まで来ておいて話すことじゃないだろうに」


 まったく、今更すぎる。

 きっとここにいる僕らは同じ理由で立っている。

 詩島ハルユキにとっての端紙リオ。

 片踏キョウにとっての片踏マナ。

 断言しよう。僕と君は、


「大切なひとの願いを叶えるためにここにいる」


 彼女らの想いを尊重し、願いに寄り添い、ともに未来を歩むために透明な手を握った。

 きっと僕らの相違点は、大切な人の思い描く世界のカタチだ。

 片や、死者と生者が理解しあう世界。片や、死者は死者としてあるべき世界。生きている人間と幽霊の差を消そうとしているのが君のマナならば、端紙リオは区別された今までどおりの在り方を守ろうとする秩序だ。

 往々にして、秩序には従うべきである。と、人はそう口にするだろう。だけど、僕はそうは思わない。いつだって、人間は変化を必要とする。本人の意思にかかわらず、幾度も変化が求められる。規模も様々、内容も千差万別。頭が痛くなる人の宿命だ。

 だったら、死んでも残っていることもあるだろう。

 きっと片踏マナは変化を必要としている。生きていないが、世界の取り巻く環境の変化を求めている。彼女が許容できる『兄との日々のカタチ』は、これだったというだけのこと。秩序に反しているからといって悪と見なす気にはならない。

 これはふたつの運命の、ささいな衝突事故。

 要は――意地のぶつかり合いだ。


「……たしかに。ここまできた大馬鹿者だ。似たもの同士なのは火を見るより明らかだったな」


 片踏キョウは緊張を解き苦笑した。その嘲りは僕へ向けられたようにも、彼自身へ向けられたようにも感じた。


「僕からも訊いていいかな」

「ああ。話せよ」

「君にとって、片踏マナは何だい?」

「――、そうだな」


 すこしだけ驚いて、だけど真剣にキョウは考え込む。自問自答して近い表現を探していた。

 ……やがて、長考が終わる。

 答えを定めた彼は微笑を浮かべて語った。


「あいつ、ひとりぼっちなんだよ」


 手のかかるヤツだよ、と付け足して。


「死ぬ前も、死ぬ瞬間も、死んだあとも、あいつはひとりぼっちだった」

「ひとり、ぼっち……」


 そういえば、端紙は片踏マナが自殺でこの世を去ったと語っていた。


「周囲に馴染めずにいた生前が、あいつを追い詰めた。俺は唯一味方になれる兄のくせに、気づいてやれなかった。結局、マナは精神的不安定になり首吊り。何も言わず、だれにも知らせず、ひとりぼっちで息を引き取った」


 首のあたりを手でさすり、自嘲的に笑うキョウ。


「で、死んでからも悲惨なこった。『リラシステム』の管理機構? の候補として選ばれたあいつは、研究員によって復元された。……いや、正確にはされた、っていうのが正しいか。管理局は残酷なことに、忠実にマナを蘇らせた」

「忠実に、というのは? マナの基盤ベースとなる記憶に、生前と同じ経験を積ませたってことかな」

「そうだ。『リラ』に記録されていたマナの記憶は、生前と同じ苦しみを背負わされて今に至った。そして端紙リオが事を起こすまで、あいつはたったひとり、『リラシステム』の基幹部で管理だけを行っていた」


 死ぬまえも、死ぬ瞬間も、死んでからもひとり。

 ああ、たしかにそれは恨みもする。世界の変革を望んでしまう。恵まれない現実を嫌悪し、牙を剥きたくなる。

 だからこそ、端紙リオの行動は光明でもあったのだろう。

 目覚めた端紙は、ひとつの願いのために不具合を誘発した。『リラ』の記憶データから、死んだ者のプロフィールを露出させたのだ。


 ――死んだひとと生きてるひとが、触れあえる世界。


 そんな願望をカタチにしなければ、幽霊たる彼女は生きた人間と出会うことはおろか、現実に浮き出ることもできなかった。

 それは端紙にとって大前提の条件であると同時に、片踏マナにとっては唯一の救われる手段だった。


 この世はなんて残酷なのだろうか。

 死んでもなお離さない苦しみが跋扈ばっこしている。この対峙は現実の汚点が生んだ対立だった。


「だから、俺はあいつを守る。だれが何と言おうと構わない。犯罪者になったって問題ではない。俺は今度こそ、家族としてマナを救う」


 ……それでいい。


 ここに立つ以上、僕らには覚悟がある。大切なだれかを一生背負うという、心に決めた男の意地だ。

 これですべてが終わる。

 どう転ぶにせよ、決着はつくだろう。あとは正義をぶつけ合うだけですべてに決着がつく。


「すぅ……はぁ……」


 僕は深呼吸し、気を引き締めた。

 真っ直ぐに見つめ、キョウの覚悟に経緯を表する。


「聞けてよかった。こんなカタチじゃなければ、手を取り合えたかもしれない」

「……ははっ、そうだな。俺たちなら、そうなることだってできたかもしれない」


 無言で、キョウが拳を構えた。

 僕も応えるように、視線を鋭くした。


 ここは『リラシステム』データの格納庫。

 意識のない記憶は管理され、本棚へと格納される。だけどそれは、幼少期の脳から読み取った情報に限っての話だ。


 異物である僕らは、意識を失えば外へと押し出されるだろう。


 至極単純な話だ。


 僕はキョウを、

 キョウは僕を、

 気絶させてしまえばいい。


「――っ!」


 十分に言葉は交わした。

 互いの意思も確認できた。


 駆け出し、距離を縮めるふたつの影。

 叫びにも似た鼓舞で自身を奮い立たせ、燃えさかる闘志を宿す。



 相対する意識は、真っ正面から殴りかかった――。

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