けれどソレは偽物ではない 10
たどり着いたそこは二階建てのアパートだった。
お世辞にも綺麗とはいえない。白い鉄骨は錆びの色が混じり、階段は今にも底抜けそうだ。並んだ扉には人の気配が感じられない。捨てられたようにたてかけてある自転車は何年もまえの型式で、無造作に積まれていたゴミ袋が辛うじて住人の存在を仄めかしていた。
敷地まえの
右側の通路を奥まで、扉が並んでいる。左側の通路から回り込めば、一階の部屋ごとに割り当てられた庭が広がっていると予想が付く。
「……」
周囲は住宅街だが、平日の昼間の現在、通りがかる人影は皆無だ。どこかの屋根で鳴く野鳥の声と、吹き抜ける微風だけが音のすべてだった。
無論、見染目も声は発さない。
僕はただアパートを睨む彼女を横目で見て、尋ねた。
「部屋は?」
「一階五号室」
五号室。手前が一号室ということは、一番奥が五号室か。
目を凝らすと、五号室のまえにホウキが立てかけてあるのが見えた。ちゃんと誰かが暮らしている形跡が見受けられる。片踏キョウの居場所というのは、ここで間違いなさそうだ。
「……行かないの?」
険しい顔つきのまま動こうとしない見染目にため息をついて、僕が先導することにした。
じゃり、と一歩、敷地に入る。
アスファルトとは感触が違う。雑草もところどころに生えた敷地を横切り、奥の五号室に向かった。見染目は黙ってついてきた。
『片踏』という表札のまえで、足を止める。
一度顔を見合わせて、頷きあった。意を決して、古めかしいインターホンを押す。
「……」
「……」
耳を澄ました。
のどかな背後の空気から身を外す気持ちで、扉の向こうに意識を集中した。携帯に繋がっているはずの端紙も声を発することはなかった。
……と。
微かに、物音が聞こえた気がする。
何かを蹴った音だ。足音も聞き取り難いがたしかにある。
十五秒。返事はない。
それどころか、玄関先の方までやってくる気配もない。
だが、音だけは聞こえる。
ほら今も。何かをガラリと開けたような――ガラリ?
「まさかっ」
嫌な予感がして、入ってきた方角を振り返る。
アパートを挟んで反対側から回り込める通路。すでに人影は姿を見せていた。
「待っ――!」
パーカー姿の男が塀の隙間から道路に身を躍らせる。脇目も振らず、視界から消え走り去っていった。
「っ!」
見染目は瞬時に追う判断を選んだ。
言葉も残さず、颯爽と走っていく。肩にかけていたバッグを放り出してまで。
「ちょっと見染目……ああもう!」
もう遅い。彼女も行ってしまった。
僕は彼女のバッグと自分のカバンをアパートの影に隠して、見えないふたりを追った。
道路に出ると、遠くに見染目をみつける。
バカと叫びたい。
最近は走ることばかりだ。筋肉痛が抜けないこちらの身にもなってほしい。いや、端紙と行動していることはヒミツなのだから無理があるけれど。それでも、これではイノシシ同然の反射行動だ。せめてもう少し冷静に行動してほしい!
内心ではそんなことを吐き捨てる気持ちで、角を曲がる。
「端紙!」
『もうマークしています。見染目クミカは依然として追跡中、我々は回り道を。次の角を右折してください』
端紙の持つ『リラ』ユーザーの所在地が記された地図。
この際、片踏キョウは逃がして構わない。いや、逃がさなければならない。僕らが防がなければならないのは、見染目が彼を捕らえ、幽霊であるマナへの足がかりを失うという結末だけだった。
言われたとおりの角を曲がる。
市営住宅に挟まれた公園が現れ、ナビに従い突っ切った。
十字路に出て、視線を巡らせる。
『左へ』
走った。
姿を確認するまでもない。見えなくてもいい。行き先は声が示してくれるのだ。迷うことはなくなる。問題は僕の体力だけだった。
『突き当たりのカーブミラーを右に。T字路左からふたりが通過するまで三秒です』
言われたとおり、前方に男が現れた。
こちら側から追い詰める自分に気づいた。どこかで見た顔を青ざめさせ、すぐに踵を返す。遅れて見染目が横切った。そのすこし後ろを僕が追いかける。
「はっ、はっ、はぁっ! あのバカ、なんでそんな体力……!」
『視界、開きます。前園橋まえ、横断歩道です』
言われたとおり、前方に目を凝らす。小さい男の背中と、肉薄する見染目。すぐ先では点滅する青信号が赤に移った直後だった。否応ナシに、男の足は止まることだろう。
ひやりとした感覚が走る。
「くそっ――端紙!」
『……いいんですね?』
「いい! 思いっきりやってくれ!」
こうなればこっちもヤケだ。
僕は拳を握り込み、罪を犯す自分を責めた。その上で覚悟を決めた。
状況は予想外で手段も手荒。与えるダメージの大きさは計り知れない。彼女は
視界の真ん中に傷をつける標的を置く。すでに彼女の手は男の服を掴み、取っ組み合いのようになっている。感情を露わにした声が響いていた。
それを見据え、心を冷たく冷やした。
酸素不足で揺らぐ視界。
沸騰しそうな血液の感覚。
嫌われる予感と苦しみ。
ギリ、と奥歯を噛みしめた。端紙は気配で何かを起こした。
もはや止めることはできない。
……さあ。
訣別の時間だ。
「いやぁぁああああああああッ――!!」
悪夢を再現する。
彼女のトラウマを呼び起こす。
じくりと胸の奥に痛みが走る。
片踏キョウは信号無視をして走り去った。
「はっ。はっ……はぁ」
たどり着いたそこには、罪の光景が広がっていた。乱れた呼吸が容赦なく自分を責め立てた。
横断歩道のまえで、うずくまる見染目クミカ。
耳を塞いで、首を振る。
青空に見下ろされ、交差点に絶叫がこだまする。
懐からおぼつかない手で携帯を取りだして、投げ捨てた。
ソレは地面をすべり、僕の足に当たった。画面は『リラ』の黒いプロフィールで幾重にも埋め尽くされていた。
「違う違う違う違うちがうチガウ! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ! あたしのせいじゃない! 全部お前がやってきたことだ、仕方ないことだっ! あたしがやったっていいじゃない! だって、だっ、て! やらないと、じゃないと、あたしが殺されるんだからぁ……ッ! だから早く消えてよッ! あんたはもう死んだはずでしょッ!?」
「――、」
変わり果てたかつての友人に、罪の重さを自覚する。他でもない僕自身が壊してしまったのだと受け入れて、途端に大切な何かが割れた気がした。代わりに胸を埋めたドス黒い感情は、かきむしっても消えそうになかった。
もう、届かない。手を伸ばすことすら許されない。慰めの言葉をかけるのもおこがましい。それほどのことをしてしまったんだ。
僕は立ち尽くして、ただ見下ろすことしかできなかった。
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