東京へ
一月一日、一年の始まりの日の朝。
俺たちは東京へ向かう身支度を済ませ、リビングに集結した。俺の荷物はリュックサックだけだが、千沙は肩掛けバッグに加え、ブラウンのキャリーバッグも持っている。朱莉も玄関に薄桃色のキャリーバッグを置いていた。
「お前らだけハワイにでも行くのか?」
「女子は色々必要なものがあるの」
千沙が部屋の照明を消しながら言った。
女は大変だ、他人事だから知ったことではないけれど。
「へぇ」
「それじゃあ、行くよ」
十時過ぎに家を出発し、福岡空港へ向かった。元日にふさわしい快晴だ。クリスマスイヴ以来雪は降っていないから、街中に雪はもう残っていない。二つのキャリーバッグのローラーが、アスファルトの上でガラガラと音を立てながら回り続けていた。
二十分ほど地下鉄に乗って移動すると、空港に到着した。毎年来ている場所だが、こいつらと一緒に来ると修学旅行のような非日常的な気分になる。
千沙がロビーの自動チェックイン機でチケットを発券している間、俺と朱莉はベンチに座って待つことにした。すると、隣にいる朱莉のコートの袖から見覚えのあるものがちらりと見えた。
「それ、ちゃんと着けてるんだな」
俺がクリスマスにプレゼントした時計だ。子供向けの商品ではないが、朱莉が着けていても違和感はない。
「うん、これは大切なものだから」
そこまで言ってもらえると贈った甲斐があるというものだ。
「そりゃどうも」
横を向くと、朱莉ははにかんで目を逸らした。
やがて千沙がチケットを手に持って、こちらに戻って来た。
「お待たせ。朱莉、窓側の席がいい?」
「私は別に。貞治君、窓側にする?」
「え、マジで? 窓側がいい。ありがとう、サンキュー」
「良かったね、貞治君」
朱莉が口元に笑みを浮かべた。
「全く、どっちが子供なんだか……」
千沙は俺たちのやり取りを聞いて呆れていた。
そのあと俺たちは空港内にある土産屋に行った。多種多様な九州土産の中から真っ先に宮崎地鶏のぼんじりを手に取る。
「アンタ、ぼんじりいつもここで買ってたんだ」
千沙が横から声をかけてきた。
「まあ、俺が食いたいだけだけどな」
正月に帰る前に毎回パックのぼんじりを買うようにしている。ぷりっとした弾力のある食感は何事にも代えがたい九州の財産だと俺は考える。
千沙は博多名物の苺、「あまおう」味の饅頭を選んだ。みんなに配るなら個包装の菓子が一番手っ取り早い。これも間違いなく逸品なので俺も一個頂こうと思う。
手土産もばっちり用意したあとは、手荷物カウンターにキャリーバッグを預け、保安検査場を通過した。
搭乗口の前で滑走路を眺めながらしばらく待ち、予定時刻になるといよいよ飛行機に搭乗だ。機内の奥まで歩き、俺が窓側、千沙が通路側、朱莉がその間の席に座った。
正月に飛行機が離陸する瞬間を窓から眺めるのが毎年の楽しみだ。新年に向かって飛び立つ気分が味わえる。
やがて出発のアナウンスが流れ、飛行機が振動と共に滑走路を走り出した。
機体が浮き上がり、加速度による負担が体にかかる。
地上の風景が少しずつ遠くなり、空に近づいていく。
また、新しい一年の始まりだ。
正月に婆ちゃんの家に行くというと、なんとなく都市部から田舎へ帰る様を思い浮かべがちだが、俺たちの場合は地方から東京へ出向くことになる。
羽田空港を出たあと電車に乗り、年に一度しか見られない景色を眺めながら移動した。
東京の街の風景は否応なしに昔のことを思い出させる。短大に通ったり、友達や恋人と遊びに出掛けたりしたものだ。
朱莉が空いた席に座り、キャリーバッグを自分の前に置いた。俺と千沙はドアの前に立ち、何か話すわけでもなく窓の外に目をやっていた。俺はふと気になったことがあり、千沙に話しかけた。
「千沙はこっちの友達と会ったり連絡取ったりはするのか?」
「……うーん、別に」
千沙は窓ガラスを指先で撫でながら、遠い目をして言った。
「学生の頃までに出会った人たちや思い出はもう、
普段は千沙と話していても歳の差を実感することはあまりないが、一瞬見せた物寂しい表情に十年という歳月の長さを感じた。千沙は三十二年、俺は二十二年、朱莉は十二年。俺たちは、積み上げてきた人生の大きさが違う。公園でそれぞれ一個ずつ作った雪だるまの体のように、経験を転がしてきた量が違う。そういう差異を思わせる眼差しであった。
「そんなもんか」
俺はいい加減な返しをすることしかできなかった。
一時間ほど電車を乗り継いで行くと板橋駅に到着した。
そこから数分歩いたところにある古いマンションの五階が婆ちゃんの家だ。
玄関扉の前でインターフォンのボタンを押し、そのまま部屋の中へ入っていく。
「来たぞー」
そう言って靴を脱ぐと、婆ちゃんが玄関までやって来た。
「貞治ちゃん、久しぶり」
御年七十八歳、もじゃもじゃな髪の毛には黒と白が入り混じっているけど、腰はまだ曲がっていない。
「今年は千沙ちゃんと一緒に来たのね」
「お婆ちゃん、あけましておめでとう」
千沙が玄関から上がると、婆ちゃんは軽く頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
それから朱莉も玄関に入った。
「朱莉ちゃん、大きくなったねぇ」
「あ、あけましておめでとうございます」
「あけまして、おめでとうございますー」
朱莉はどこかぎこちない様子だが、今までもこれくらいの距離感だったと思う。それでも婆ちゃんは気にせずにニコニコしていた。
この家は居間と和室の間の仕切りが外されていて、二つで一つの大部屋のようなレイアウトになっている。居間では年季の入ったテレビとローテーブルが古い住人のように鎮座している。俺たちが一番乗りだったようで、他にはまだ誰も来ていない。和室に三人分の荷物を置かせてもらった。
「爺ちゃん、今年も来てやったぞ。感謝しろ」
和室にある仏壇の前に座り、鈴棒でお鈴を鳴らした。爺ちゃんは、俺と千沙が二人でここに泊まった年の暮れに急に体が弱り、老衰で死んだ。俺たちは三人で手を合わせて爺ちゃんに挨拶をした。
そのあと婆ちゃんがお茶を入れてくれたので、和室で一息ついた。
「千沙ちゃんも、貞治ちゃんも、去年は大変だったね」
千沙の離婚と、俺の家の火事のことだろう。離婚の話は千沙の両親から聞いたのだろうか。千沙は困り笑顔を浮かべた。
「もう過ぎたことだし、全然平気だから……」
「まあ、人生色々あるからね。お婆ちゃんも何回お爺ちゃんと別れようと思ったことか」
「あはは、そうなんだ……」
爺ちゃんは一体何をやらかしたのだろうか。気になるところではあるが、話が長くなりそうだから俺も敢えて触れないことにする。
「貞治ちゃん、千沙ちゃんの家は楽しいかい?」
今度は俺に話が振られた。答えるのが微妙に恥ずかしい質問だけど、正直に答えた。
「まあ、楽しいよ」
「そりゃ良かった。やっぱり家族は助け合わなきゃいかん」
「家族じゃなくて、いとこだけどな。ボケてんのか」
「そんなのは、同じようなものさ」
そうなのだろうか。確かに婆ちゃんから見れば、孫なんて全員同じカテゴリーなのかもしれない。
こんな調子で他愛のない話を続けた。
しばらくすると、千沙の両親と兄がやって来た。千沙の父親と俺の父親が兄弟で、婆ちゃんの子供だ。千沙の兄、和樹は千沙より二歳上で、定職には就いているが、独身で両親と一緒に暮らしている。
みんなで新年の挨拶を交わし合ったあと、和樹が言った。
「貞治、今千沙の家に住んでるんだって?」
「ああ、そうだよ」
和樹は俺より十二歳上で干支が一回り違うけど、千沙と同じように年齢差は気にせずに接している。
「もう貞治が千沙と結婚してあげれば? ははっ」
「そしたらお前のことをお兄ちゃんと呼ぶが構わんか?」
「うへー、気持ちわりぃ」
「ていうか、お前の方こそ早く結婚しろよ」
「えー、絶対やだ」
俺は二十二歳、和樹は三十四歳にもなるのに、子供の頃から変わらずアホなことばかり言い合っている。あしらい方にも慣れたものだ。
隣で聞いていた千沙が口を挟んだ。
「貞治の場合、旦那というより子供が一人増えたって感じだけどね」
「いや、俺そんなにわんぱく小僧じゃないだろ。ソファーでどっしり構えてるだろ」
「そんなことで威張るなよ……」
千沙が突っ込み、和樹が笑った。こんなやり取りも、兄弟がいない俺にとっては年に一度の楽しみだ。それはいくつになっても変わらない。
婆ちゃんと千沙のお母さんと千沙は夕飯の準備に取り掛かった。
やがて俺の両親も到着し、千沙にこれでもかというくらいにお礼を言ったあと、俺のもとへ来た。
「貞治、冬休み終わったら早く家決めなさいよ。お金なら何とかしてあげられるから」
「だから、しばらくいてほしいって頼まれてたんだよ。そろそろちゃんと考えるから大丈夫」
「まあ、とにかく貞治が無事で良かったよ」
父さんが優しい笑みを浮かべた。
そうだ、一歩間違えれば俺も一足先に爺ちゃんのあとを追うことになっていたかもしれないのだ。毎年正月に親族が揃って顔を合わせる。今までは当たり前のことだと思っていたけれど、それが実現できるのは当たり前ではないのだと初めて理解できた。
夕方五時頃、木製のローテーブルにおせち料理が並べられ、九人での食事が始まった。
伊達巻、栗きんとん、里芋、筑前煮、紅白かまぼこ、黒豆、昆布巻き、数の子、海老、お雑煮……。冷静に考えてみると大部分は特別に美味しいものでもないが、大晦日の歌番組と同じでこれがないとお正月という気分にはならない。
まったりとお互いの近況について話をしていると、出し抜けに和樹が俺に向かって言った。
「貞治は今日泊まってくのか」
「……ああ。実家よりここの方が千沙と合流しやすいしな」
「懐かしいなー、子供の頃はよく泊まったな」
俺は和樹とは泊まったことがない。こいつは俺が物心ついたときにはもう大学生になっていた。
「和ちゃんは騒がしい子だったねぇ」
婆ちゃんがしみじみとした声で言った。
「今でも充分騒がしいけどな」
俺が茶々を入れると和樹は「うるせー」という表情で反論した。
「朱莉ちゃんも泊まっていくのよね」
婆ちゃんは期待と喜びに満ちた笑顔を朱莉に向けた。今までずっと大人しくしていた朱莉はいきなり話しかけられてオドオドした。
「えっ、私は泊まらないよ」
「あら、朱莉ちゃんも泊まるって聞いてたんだけど」
それは俺が勝手に言ったことだ。
母さんが無言で俺のことを睨んでいる。
「でも……」
「お婆ちゃんだって、いつまで元気でいられるか分からないだから」
婆ちゃんが追い打ちをかける。俺も人のことを言えないが、せこい。こんなこと言われたら善良な子供は断れない。
案の定、朱莉は困った顔で千沙の方を見た。
「泊まっていいよ。どっちにしろ、明後日帰る前に貞治と落ち合うことになるし」
千沙が優しい口調で言った。もしかしたら朱莉は泊まるのが嫌なんじゃなくて、遠慮していたのだろうか。表情の微妙な違いから気持ちを汲み取ることは俺にはできない。
「うん……。じゃあ、泊まる」
「そうしていきなさい」
朱莉が頷くと、婆ちゃんは皺くちゃな目尻に更に皺を寄せた。
俺は十五年前のことを思い出した。あのときは俺が小学生、千沙は高校生だった。十歳差の俺たちは二人でこの家に泊まった。だが今度は立場が変わり、俺より十歳下の千沙の娘と泊まることになった。不思議なこともあるものだ。
朱莉がふとこちらを向き、目が合った。俺がニヤリと笑いかけると、朱莉も頬を緩ませた。
朱莉にママと呼ばせる作戦をそろそろ再開してもいいかもしれない。
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