第93話 目覚め。
「──もういいか」
そんな声が響いて、世界が白に飲まれていく。人がいないだけで確かな形を保っていた筈の街が、痛んだ白に飲まれて消える。
そして、緑姉さんの姿が……白い影に変わった。
「…………」
それは確かに、そこにいる。……その筈なのに、どうしてか目に映らない。見えている筈なのに、白すぎて脳がそれを認識できない。
「橙華さん、大丈夫ですか? とうか……あれ? 橙華さん?」
世界にはもう色も形もなにもない。まるでキャンバスの中にでも落ちたように、この世界には白と白より色のない影しかない。
……だから、そう。
橙華さんの姿も、消えていた。
「おい、お前! 橙華さんをどこにやった!」
そう叫び、緑姉さんだった白い影に掴みかかる。……が、その手が触れる前に身体が止まる。あまりの格の違いに、魂が勝手に頭を垂れる。
「……っ!」
姉さんが持っていた真っ黒な剣。あれを見た時と同じ圧倒的な威圧感に、本能が身体に枷をはめる。これ以上は近づくなと、身体が動かなくなってしまう。
なんだ、こいつは……。
……いや。これが、白白夜の死神なのか?
「お前が灰宮 なずな、か。思っていたより、貧相だな。これで本当に、役割が果たせるのか?」
「…………は?」
白い影から発せられた声は、想像していたよりずっと人間味があった。だから俺は思わず間抜けな声を溢すが、今はそれどころではない。
「おい、お前。俺の質問に答えろ。橙華さんは……緑姉さんは、無事なのか?」
真っ直ぐに白い影を睨む。けれど白い影はそんな俺を嘲笑うように、ゆらゆらと揺れる。
「お前はいつも、他人のことばかりだな。誰々はどうした。誰々は無事なのか。……そんなことだからお前は、いつもいつも大切な選択を間違う。悩んでばかりで、答えを出すことができない」
「……勝手なことを言うな。それより早く、俺の質問に答えろ。2人は、無事なのか? ……そもそもここはどこで、お前は誰だ? ……緑姉さんが白い呪いを受けていたから、お前はここに来たのか?」
「また他人のことだな。……優しさを優柔不断の言い訳に使っているから、お前の存在は虚なままなんだ」
見透かしたような声で、それは嗤う。まるで蛇に絡みつかれたように、徐々に胸が苦しくなる。
「…………」
こんな奴が、白白夜の死神なのか? 姉さんの話から受けた印象とは、まるで違う。人の心も神の心も理解しない災害。それが、白白夜の死神のイメージだった。
なのに目の前のそれの言葉は、鋭いナイフのように俺の胸に突き刺さる。
「まあしかし、今回は挨拶に来ただけ。多少は優しくしてやらないと、嫌われてしまう。……お前には、まだやってもらわなければならないことが、山ほどあるからな」
白い影がこちらを見る。……いや、その白い影のどこに顔があってどこに目があるのかなんて、俺には全く分からない。けれど確かにそれは、こちらを見ている。その視線が、俺の肌を刺す。
「私は、白い夜の影だ。名はないし、色も形もない。この人格も今だけの仮初。この場所も、それと同じ意味のない虚だ。嘘しかないこの世界でも、ここより嘘は中々ない」
「……意味が分からない。それより2人は、無事なのか? 何度も同じことを訊かせるな」
「そう睨むな。あの小娘たちは一足先に現実に戻った。傷1つ、つけてはいない。……というかそもそも、ここでのことなぞ覚えていないだろう」
「でもお前は、緑姉さんを飲み込んで現れた。その意味はなんだ?」
「それはただ単に、波長があっただけだ。姉妹の中であの娘が1番、不安定で飲み込みやすかった。だから少し、利用させてもらった」
「……つまりそれは、緑姉さんが白い呪いを受けているってことか?」
「さて、それはどうかな。そう思うのならそれでいいのかもしれんが、間違っていたら取り返しがつかんぞ?」
白い影がざわざわと揺れる。また、言葉が響く。
「私がここに現れたのは、お前と話をする為。白い夜の唯一の例外……あの漆黒の鷹の剣を退けた存在を、一度この目で見たかった。それだけだ」
目の前のそれが、嘘をついているようには思えない。そもそも嘘を吐く理由も意味も、こいつにはない筈だ。
「…………」
落ち着く為に息を吐き、考える。……けれど、どこからどこまでが夢でどこからどこまでが現実なのか。それすら、分からない。
「意味のない思考をするな。この1週間がなんの為にあったのかは、向こうに戻れば分かる。……と言っても、向こうでは1秒も経ってはいないのだがな」
「お前はいちいち……いや、いい。2人が無事なら、今はそれで充分だ」
この白い影とは、上手く会話が噛み合わない。この白い影は、俺たち人間とは見ているものが違う。こいつの言葉がどれだけ鋭くて、どれだけ確信をついていても。遥か高みから投げかけられたものでしかない。だからいくらこいつと話をしても、意味なんて──。
「灰宮 なずな。最後に1つ聞きたい。……いや、聞かせろ」
「──っ」
先程までとは比べ物にならないくらいの威圧感が、魂を射抜く。この問いをする為だけに、今までの時間があった。そう思えるくらい真剣な声で、目の前の白は言う。
「どうしてお前は、この現実を選んだ?」
「…………は?」
言葉の意味が分からなかった。……けれどどうしてか、とんでもない間違いを犯してしまった。そんな気にさせられる。不安と後悔に、胸がズキズキと痛む。
「あの蜘蛛……お前の姉さんが作った夢で眠り続けていたら、この世界が滅びることはなかった。……彼女もこれ以上、こんな夢を見ずに済んだ。なのにお前は、どうしてこんな嘘しかない現実を選んだ?」
「
気づけば、そう答えていた。質問の意図も意味も全く分からないのに、魂がそう叫んでいた。
「……そうか。ならやはり、お前には見る目がない。お前なら或いは彼女と同じ視点に立てるかもと思ったが、どうやら見当違いのようだ」
「そうかよ。ならとっとと、俺を元の世界に帰せ」
「言われなくても、そうしてやる。答えが分かった以上、お前と一緒に夢を見る意味はない。でも……」
そこで、白い影から目が見えた。声の印象とはまるで違う曇り空のような灰色の目が、哀しげに俺を見る。そしてそのまま、そいつは言った。
「あの
その言葉を最後に、世界から完全に色が消える。白い影も灰宮 なずなという人間も完全に消え去って、そして……。
ふと、目が覚めた。
「あ、なずなくん目を覚ましたんだね〜。おはようー」
目を開けると、頬を綻ばせた橙華さんが弾んだ声を溢す。
「……おはよう、ございます」
俺はそんな橙華さんにそう言葉を返して、まだはっきりとしない頭で状況を確認する。……ここは屋上で、俺は橙華さんに膝枕されたまま眠っていたようだ。
「いま、何時ですか?」
「12時半前だよー。だからもうちょっとだけ寝てても、大丈夫だよ」
橙華さんがよしよしと頭を撫でる。
「緑姉さんは……いないですよね?」
「うん? どうして、みどちゃん? ……みどちゃんは、ここにはいないよ。ここはあたしとなずなくんの2人きり」
「……そうですよね」
ならやはり、緑姉さんが来たところから全部、夢だったのだろう。……ただの夢とは、思えないが。
「膝枕、ありがとうございました」
そう言って、立ち上がる。……まるで何日も眠っていたように、身体が重い。
「あれ、もういいの?」
「はい。もう十分、堪能しました。……それにそろそろ戻らないと、遅刻しますよ?」
俺のその言葉を聞いて、どうしてか橙華さんは笑った。彼女は口元で小さく笑って、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「なずなくん。頬にご飯粒ついてるよ?」
そしてそんなことを言って、橙華さんはまた俺の頬にキスをした。
「────」
その感触は夢よりずっと柔らかくて、温かい。やっぱり現実っていいなって、そう思えるくらい……幸せだった。
そうして、長い長い昼休みが終わりを告げた。
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