第76話 悪夢を見た。



「──なずな。これからは彼女が、貴方の姉よ」



 そんな言葉が響いて、少女は初めてなずなという少年に出会った。


 どうしてか自分と同じ、灰色の髪と瞳。まるで初めから器として産まれてきたような、冷たい雰囲気と人形のような眼差し。それが、なずなという少年だった。


「お前が、なずなか」


「……!」


 少女が顔を覗き込むと、怖がるように母親の背中に隠れる。その姿はどこからどう見ても、人間のものだ。……少女はそれに、少し安心する。


「……なるほどな」


 そして少女は大きく息を吐き、こう思った。



 この子は、救えない。



 なずなは一度、死んでいる。その魂が普通ではないことは、一目見た瞬間に気がついた。この少年の小さな命は、白い呪いが生かしている。……無論、今の少女の力なら、その呪いを断ち切ることはできる。


 けどそれは、なずなを殺すということと同義だ。なずなを生かしている呪いを斬れば、なずなは死ぬ。蜘蛛の少女はあの白と違い、人を蘇らせることなんてできない。



 だからなずなに残された選択肢は、2つだけ。



 不幸なだけの人生を生きるか。不幸に殺される前に命を断つか。この小さな子供には、そんな選択しか残されてはいなかった。


「……やはり人は、悍ましい」


 ……いや、それは人だけの問題ではない。この自分と同じ灰色の少年の呪いは、まるで自分の未来を暗示しているように思えた。


 神である少女にそっくりな人形を殺すことで、神にもその呪いを波及させる。この少年を見ていると、そんな嫌な想像に少女の頭が痛む。


「……あの」


 いつの間にか足元に近づいてきていた少年が、少女の顔を見上げる。そしてどこか緊張したように、それでも勇気を持って少年はその言葉を口にした。



「これからよろしくね、ねえさん」



「……ああ。よろしくな」


 悍ましいと思っていながらも、少女はその少年の笑顔を踏み躙ることができなかった。だから少女は、この少年を守るのは自分の器にする為だと言い聞かせて、少年の姉になった。



 そしてそれから2人は、ほとんど毎日同じ時間を過ごすようになった。



「ねえさん。あそぼ?」


 学校に行ってもどこに行っても、なずなは虐められるだけだ。なずなの内に白い呪いがある限り、誰であってもなずなの味方はしてくれない。



 例外は神である少女と、特別な力を持った父親と母親だけ。



 だから蜘蛛の少女はゆりと欠慈に言って、なずなを学校に通わせるのを辞めさせた。初めは2人ともそれに難色を示したが、なずなの命に関わると言われれば、2人も認めざるを得なかった。


 だからなずなはゆりへのお見舞いを除けば、ほとんど毎日家で過ごすようになった。なので自然、一緒に住むようになった少女との時間も増えた。


「ねえさん。ねえさん」


 それだけの時間一緒にいると、なずなも徐々に少女に懐いていき、いつも少女の後ろをついて回るようになった。


 一緒に遊ぼうと誘って。描いた絵を嬉しそうに見せに来て。褒めてやると喜んで。勉強を教えてやると素直に飲み込んで。時折、頭を撫でてやると照れ臭そうに笑う。



 ……ああ。人間とは、本当に悍ましい。



 なずなと関わる度に、少女はそう思った。どうせこの少年も、目を離したらすぐ大人になる。この愛らしさを自ら踏み躙り、他人を傷つけるようになってしまう。


「…………」


 そう思うのに、少女はなずなの側に居続けた。優しくする必要なんて、別にない。構ってやる理由も、愛してやる意味もどこにもない。……そもそもこうして一緒に住む理由すら、少女にはない筈だった。


 なずなの呪いが少女の手にも負えないというのは、一目見た瞬間に分かった。なのにどうしてか少女はこんな家にいつき、幼い少年の面倒を見続けた。


 ……器にしたいだけなら、もっと合理的な手段はいくらでもあるというのに。


「気まぐれだ。……ただの気まぐれに過ぎん」


 そう自分に言い聞かせて、ねえさんと言って甘えてくる子供の頭を撫でてやる。そうやって自身の心から目を背け続け、あっという間に時が流れた。



 そして、ある日。欠慈にどうしても外せない仕事ができ、ゆりもまた検査で見舞いに行くことができない。だからなずなと少女は2人、留守番をしていた。


「…………」


 なずなは父親の欠慈が買ってくれたミニカーを転がしながら、寂しそうに空を見上げる。


 なずなはいつだって、文句1つ言わない子供だった。唐突に姉ができたと言われた時も。学校に行くなと言われた時も。よその人と仲良くなってはいけないと言われた時も。



 なずなはいつも『わかった』とだけ言って、素直にそれを受け入れた。



 今だって寂しい筈なのに、文句1つ言わずその寂しさに耐えている。


「……なあ、なずなよ。お前は……寂しくはないのか?」


 そんななずなを見かねて、少女はそう声をかける。


「だいじょうぶだよ。ぼくには、姉さんがいるもん」


 なずなはそれに、素直な笑顔で答える。


「……お前は、本当に……」


 少女は胸の内に湧いた感情を誤魔化すように、なずなの頭を撫でてやる。そして少女はそのまま頭を撫でながら、言った。


「仕方ないから、妾が遊びに連れて行ってやる」


「いいの⁈」


「ああ。妾がとっておきの遊び場に、案内してやる」


 そして少女は、なずなを自身の領域である山に連れて来た。ここでなら他の人間と遭遇することもないし、獣に襲われる心配もない。


「……すごい」


 なずなは初めてやって来た山に目を輝かせ、1日中、走り回って遊んだ。……そしてなにかある度に、姉である少女に報告してくれた。



 綺麗な川を見つけると、冷たくて気持ちいいよと教えてくれた。高い所に行くと、あの遠くにあるのがぼくたちの家だよと教えてくれた。



 そんなことは、神である少女からすれば分かりきったことだ。……でも、そうやってなずなが笑いかけてくれることが、少女はとても……嬉しかった。


「なにを、馬鹿な……」


 けれどそんな感情は、一時の気の迷いだ。どうせこの子供も、時間が経てば血を流す。少女は誰より、それを理解していた。『もしかしたらこの子だけは……』なんて甘い望みを、少女は何度も何度も裏切られてきたから。



 でも……。



「姉さん! こっち! こっちきて!」



 夕焼けに頬を赤く染めて、なずなが大きく手を振っている。


「聞こえているから、あまり大声を出すな」


 少女はそんななずなにため息を吐いて、ゆっくりと近づく。


「…………」


 この場所が、よく知る山の中だったからだろうか? 少女はいつもより、ずっと無防備だった。心も身体も、完全に油断しきっていた。……だから少女はここで、手痛い不意打ちを受けることになる。



「姉さん! これ、あげる!」



「────。それ、は……」



 なずなが少女に手渡したのは、どこにでも咲くような一輪の花だった。


「姉さんはね、いつもぼくのそばにいてくれる。今日もこんな楽しいところに、連れてきてくれた。だからこれは、そのおれい!」


 なずなは、笑う。もう顔も忘れてしまったいつかの少年のように、なずなは無邪気に笑う。100年待っても1,000年待っても咲かなかった花が、こんなところで……咲いてしまった。


「…………ああ。本当に、悍ましい」


 少女はなずなを、抱きしめた。もう我慢できないというように、強く強く小さな身体を抱きしめる。


「い、いたいよ。姉さん……」


「そうだ。妾はお前の姉だ。だからこれからは妾が、お前を助けてやる。どんなことがあっても、守ってやる。……愛しい愛しい妾のなずな。妾がいる限り、絶対にお前を傷つけさせない」


「わかった! じゃあ姉さんは、ぼくがまもってあげるね?」


「……本当に、可愛い奴め」


 少女は日が暮れるまで、なずなを抱きしめ続けた。なずなもそんな姉の温かさが嬉しくて、心から幸福だった。そして2人は手を繋ぎ、小さな花を持って家へと帰る。



 この幸せがずっとずっと続きますようにと、祈りながら。






 ……けれど神の祈りすら届かないのが、この世界だ。



 それからしばらくして、天底災禍がやってくる年になった。



 いくら神の少女と言えど、自身の意識を2つに分割することはできない。だから天底災禍が現れる年は、依代を動かすことができなくなる。


「……悪い、なずな。しばらくお前を、1人にする」


 蜘蛛の少女は苦虫を噛み潰したような顔で、そう告げる。


「大丈夫だよ、姉さん。俺にはお父さんもお母さんもいるし、姉さんだってまた帰って来てくれるんでしょ? なら、大丈夫」


 なずなは笑う。時は流れても、なずなの笑顔に曇りはない。


「本当に、可愛い奴め。……すぐに帰ってくる。そしたらもう、決して離れない。ずっとずっと、妾が側に居てやる。妾の花。愛しい愛しい妾の弟。……愛してる」


 最後になずなをぎゅっと抱きしめて、神は自らの住処で長い眠りにつく。……いや、彼女が今まで眠っていた月日を考えるなら、それは本当に瞬きする暇もないほどの一瞬だ。



 姉妹たちが天底災禍を破壊するまで、たった半年。



 それだけの時間が経てば向こう100年は、なずなの側に居てやれる。なずなが死ぬまで、その身体を抱きしめてやれる。



「おやすみ、姉さん」



 神はそのまま、静かな眠りについた。そして……そして。その間に全てが、台無しになってしまった。


 まるで見計らったように、ゆりが死んだ。確かな目を持っていた筈の欠慈は、白い呪いに飲まれてなずなを殺してしまった。



 そしてなずなは、1人の少女の願いによって2度目の死を乗り越えた。



 その少女は自らの愛が、その代償だと教えられた。その愛を打ち明けることなく、ただ1人の人間を愛し続けるのが明けない夜の呪いだと。



 しかしそれは、真実ではない。



 その少女と契約した女は、意図的に1つの条件を隠した。そして、なずなと関わったせいでその少女にも……姉妹たちにも、全てが上手くいかない白の呪いが波及した。だから少女たちは、天底災禍を破壊することができなかった。


 完全に破壊されていれば、蜘蛛の少女も目を覚ますことができただろう。けれど姉妹たちは天底災禍を破壊することができず、弱らせて追いやることしか出来なかった。だから蜘蛛の少女はいつまで経っても目を覚ますことができず、ただ……眺め続けた。



 愛しい弟が、苦しむ様を。どこへ行っても周りから拒絶され、傷つく姿を。あの優しかった瞳が、苦しみと痛みに黒く染まっていく様を。少女はただ、見つめ続けた。



「──絶対に、赦さない」



 だから少女は、心に決めた。



 どんな手段を使っても。たとえなずな本人がそれを拒絶しても。この悍ましいだけの世界を終わらせて、なずなを安らかに眠らせてやろうと。



 長くて短い悪夢の中。少女はそう、心に決めた。


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