第66話 闇に落ちる。



『夜』には血が、流れない。



 ありとあらゆる悪夢が蔓延り、狂騒を奏でる御伽の国。1,000年を優に超えるあいだ悪夢だけを見続けた神が作る、この世を飲み込まんとする災禍。それが、『夜』。



 しかしそこには、血が流れない。



 元より悪夢には血なんて流れておらず、人を害する機能がない。彼らは迷い込んだ者を取り込み悪夢へ落とすことはできても、切り傷1つつけることができない。


 事実、赤音たちもあれほどの死闘を繰り広げておきながら、誰も外傷を負ってはいない。神と直接戦った青波ですら、5日間眠り続けただけで傷1つ負ってはいない。


 闇より暗い『夜』の世界。しかしそこには、血が流れない。世界を滅ぼさんと荒ぶる神は、どうしても人を傷つけることができない。だから『夜』に痛みはあっても、傷みはない。



 ──故にそれは、『夜』に流れた初めての血だった。




「……ああ。ああ。あああああああああ!!!」


 つい先程まで威厳と気品に満ち溢れていた神が、狂ったように叫びを上げる。まるで、膝を擦りむいただけで大声で泣く子供のように、神は傷みを叫ぶ。


「どうしてだ! どうしてだ!! どうしてだ……!!! どうして貴様らは、血を流す! 優しさと愛を美徳としながら、どうして簡単に血を流すのだ……!」


 真っ白な翼が荒ぶる。辺りの闇も、小さな蜘蛛も、真っ赤な血も、全てその白い翼に貫かれて消える。


「……ああ。どれだけあいつが、貴様たちを愛していたと思う⁈ どれだけあいつが、貴様たちとの約束を大切にしていたと思う! なのにどうして貴様らは、それら全てを血に染める⁈ どうして貴様らはそんなにも愚かで、どうして……どうして神は……」



 そんなにも、狂っているのか。



 遠い遠い昔。神がまだ、人と同じ世界を生きていた頃。優しくも愚かである人々は、神を敬い神と共に暮らしていた。そして神もまた、そんな人々を愛していた。


 ……けれど人々は、少し目を離すとすぐに血を流した。少女たちが愛した人々は、自ら剣を取り同胞を傷つけた。愛を囁き優しさを尊ぶその口で、狂気に染まった叫びを上げる。



 



 退屈しのぎに人を謀り、血に染まった大地を見て嗤う。嘆き苦しむその姿がおかしくて仕方ないと言うように、神はただ嗤う。



 ……そんな狂った世界を、3にん神々しょうじょたちは心の底から嫌悪していた。



 だから、真っ白な夜が世界を覆った時。真っ赤な血が、神々を狂わせた時。あの白白夜の死神が、神を殺し尽くした時。神々しょうじょたちは……。


「やめろ。やめろ……。やめろ……! やめてくれ……!!!」


 また翼が、荒ぶる。神の目にはもう、青波の姿なんて見えていない。彼女はただ自身の過去を叩き壊すように翼を振りまわし、狂ったように叫び続ける。


「……なぁ、青波。これで……こんなので本当に、よかったのか?」


 あまりに狂った神の姿を見て、流石の藍奈もそんな言葉をこぼす。


「イカれた方法がいるって言ったのは、藍奈でしょ?」


「それは……そうだけどよ。でもこれは……ないだろ?」


 この神にどれほどのトラウマがあるのかなんて、藍奈にも青波にも分からない。けれどこれではまるで、泣きじゃくる子供を踏みつけにしているようだ。


 傷口に塩を塗り、悪夢をトラウマで抉る。そんな行いは、藍奈が求めている戦いとは正反対に位置するものだ。だから藍奈はどうしても、納得できない。


「いいんだよ、これで。……私はほんの少しだけだけど、彼女たちの過去を見た。彼女たちがどうして血を嫌うのか、なんとなくだけど分かる」


「そういやお前は、こいつらの悪夢を見たんだったな」


「うん。……いや、そうじゃなくても戦場で同情なんてしないよ。相手を泣かす覚悟もない癖に、剣を取るような奴はただの馬鹿だ。……藍奈だって、そう思うでしょ?」


「……ちっ。お前が、正しい。どうやらオレは、1,000年生きても馬鹿なままのようだ」


 藍奈は青波の身体で気怠げに息を吐き、狂って暴れ続ける神を見据える。


「んで? どうするよ。このままこいつと、戦うか? それとも奥に行った嬢ちゃんを、追うか?」


「ううん、どっちもしない。私たちの役目は、この子の足止め。よっぽどのことがない限り、ここを動くつもりはないよ」


「いいのかよ、それで」


「うん。……この神さまは狂ったように暴れてるけど、いつまた正気に戻るか分からない。そうでなくても、目を離すとこのまま下で暴れるかもしれない。だからしばらく、静観。……戦って勝てる保証もないしね」


「……お前はほんと、冷静だよな」


「まあ、お姉ちゃんだからね」


 青波は笑う。こんな状況になって彼女の笑みは、変わらない。


「あああああああああああああああ!!!!」


 神が荒ぶる。闇が裂ける。蜘蛛が血を流す。そんな地獄を、青波は笑う。一歩間違えれば神の翼が身を裂くような状況で、青波だけがただ笑う。


「……必ず助けるからね、黄葉」


 けれどその小さな呟きには、切なくなるほどの祈りと願いが込められていた。



 ゆっくりと、『夜』は深まる。だからまだ、日は昇らない。



 ◇



 そして、同刻。天底災禍の核を目指して闇を駆ける赤音もまた、異常な状況に直面していた。


「なんなのよ、これ!」


 濁流のような闇を吐き出し続ける、天底災禍の喉元。壊れた蛇口のように闇を吐き出し続けるその場所は、地獄と呼んでも差し支えない。


「邪魔するな!」


 けれどそんなのはもう、今の赤音の敵ではない。今の赤音が纏う熱量は、闇すらも溶かす。


「──っ。また……!」


 けれど、声だ。子供の泣き声のような叫びが、赤音の脳を揺らす。耳を塞いでも直接心と脳を揺らすその声は、聞いているだけで魔法が揺らぐ。


「この、くらい……!」


 赤音は辺りを消し炭にする程の炎を使い、また奥へと進む。進む度に声が大きくなり、どうしてか……闇が消えていく。奥に進めば進むほど闇が深まると聞いていた赤音は、その状況に首を傾げる。


「……ううん。そんなの、関係ない」


 背筋を這い回るような不安を無視して、赤音は進む。


 赤音は悪夢に飲まれて生還した、唯一の人間だ。けれどその理由は、未だに分かっていない。なずなの悪夢だったから、抜け出ることができたのか。それとも赤音には、なにか特別な力があるのか。



 まだなにも、分かっていない。



「…………」



 ……いや、赤音には確信があった。



「私なら、できる」


 悪夢に飲まれたあの時。気がつけば世界の全てが底なし沼に落ちていたような、あのどうしようもない一瞬。なずなの悪夢に沈んだあの時のことを思い出すと、赤音は自然と思ってしまう。



 自分には、それを打ち破る力があると。



 理由も確証も、ありはしない。けれど赤音はそう確信していた。だから赤音は、核を破壊するという最も重要な役目に志願した。



 闇が最も深い場所でなら、黄葉にも手が届くと思ったから。



「これが、核……」


 なにもない真っ暗な闇に覆われた、開けた空間。そこにはどうしてか先程までの叫びは聞こえず、耳が痛くなるような静寂が広がっている。そしてその中央には、赤音と同じくらいの大きさの水晶玉が鎮座していた。



 これを破壊すれば、『夜』が終わる。



「でも今は、ダメだ」


 けれどまだ、それはできない。ここで核を破壊してしまえば、天底災禍と一緒に黄葉も消えてしまう。それでは、ダメだ。たとえ世界が滅びることになったとしても、そんな結末は認められない。



 だから、赤音は……。



「……ふぅ」


 赤音は覚悟を決めるように、息を吐く。


「行こう」


 そしてそのまま身体から力を抜き、闇へと落ちる。赤音は自らの意思で、悪夢に向かって手を伸ばす。



「待ってて、黄葉。すぐに行くから」



 悪夢に飲まれた少女を助けるには、自身もまた悪夢に飲まれるしかない。そんな、無謀としか言えない作戦。心配するみんなを無視してでも決めた、赤音の希望。



 だから赤音は迷いなく、悪夢に落ちる。



「──っ」


 そしてそこで見たのは、とあるしょうじょの小さな願いだった。


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