第26話 ずっと……。



「……って、うわうわうわうわうわっ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、死ぬっ!」


 柊 赤音の手を握った瞬間、夜空から落ちた。


 ……自分でもなにを言っているのか分からないが、気づけば辺りの景色が一変していて、俺は夜空から落ちていた。さっきまで確かに蘇芳さんの屋敷にいた筈なのに、このままだと確実に死んでしまう……!


「そんなに慌てなくても、大丈夫よ」


 けれどすぐそばからそんな声が響いて、温かな感触に包まれる。


「お前、空……飛んでるな」


 軽々と俺を抱えた柊 赤音は、当たり前のように夜の闇を蹴飛ばして、空を飛んでいた。


「言ったでしょ? 私、魔法少女なの。だからこれくらい、わけないわ」


「……凄いな。さっきの炎といい、なんでもできるんだな」


「……そんな便利なもんじゃないわよ」


「そういうものか」


「そういうものよ」


 そう言った柊 赤音の表情は普段と違ってとても穏やかで、少しドキッとしてしまう。


「でも、ありがとな。お前……赤音さんのお陰で、助かったよ。きっと俺1人じゃ、どうすることもできなかった。……ほんと、ありがとう」


「……いいわよ、別に」


 柊 赤音は照れたように、顔を赤くする。……その横顔に、いつかの誰かを幻視する。


「それで、どこに向かってるんだ? つーかこれ、人に見られたら不味いんじゃないか?」


「大丈夫よ。普通の人には見えない魔法を使ってるから。……それに目的地にも、もう着いたわ」


 柊 赤音はそう言って、山の中腹にある高台で俺を下ろす。


「……いや、どこだよ? ここ」


「私の秘密の場所。……後ろ、見てみなさい」


 首を傾げながら、言われた通り背後に視線を向ける。


「────」



 するとそこには、眩い夜が広がっていた。



 ささやかだけど蛍のように温かな光を放つ、夜の街。そして夜空に広がる、手を伸ばせば届きそうな満天の星空。それはまるで1枚の絵画のように、完成された美しい光景だった。


「綺麗だな……」


 そんな当たり前の感想が、口から溢れる。それ以外はなにも言えなくなるほど、どうしてかこの景色は俺の心を強く揺さぶった。


「ここはね、私の秘密の場所なの。昔はここでよく、ぼーっと空を見上げてた」


「……俺も昔は、よく空を見上げてたよ」


「……そっか」


 そこでしばらく、沈黙。2人してぼーっと、空を見上げ続ける。


「懐かしいな」


 するとふと、そんな言葉が口から溢れた。


「……! な、懐かしいってなによ! あんたとここに来るのは、初めてでしょ?」


「いや、そうだけど。……でもこの前の雨の時、こうやって2人で空を見上げながら雨宿りしただろ? だからちょっと、懐かしいなって」


「……それ、たった数日前のことじゃない。懐かしむほど、昔のことじゃないわ」


「……そうだったな」


 それは確かに、その通りだ。でもどうしてか、あの時の光景が酷く昔のことのように感じられる。


「それで? どうしてここに、俺を連れて来たんだ? ……ただ夜景を見せたかったってわけでも、ないんだろ?」


「そうね。……その通りよ。私がやらなきゃいけないことは、まだ残ってる」


 柊 赤音は、今まで見せたことがないくらい真剣な表情で、真っ直ぐに俺を見る。……どうやら本番は、ここからのようだ。


「ねぇ、あんた。どうして、怒らなかったの?」


「…………は? いや、なんの話だよ」


 柊 赤音の言葉はあまりに想定外で、俺はポカンと口を開く。


「またそうやって、誤魔化すのね」


「いや、誤魔化してなんかいねーよ。俺は本気で、分からない。お前は、なんの話をしてるんだ?」


「……そ。自覚がないのね。だからあんたの悪夢は、いつまで経っても終わらない」


 もう夏も間近だというのに、身も凍るような冷たい風が吹き抜ける。柊 赤音の真っ赤な髪が、まるで炎のようにゆらゆらと揺れる。


「あんた、あの……蘇芳さんって言ったっけ? あの子に、酷いことされたんでしょ? やりたくないことを強要されて、大切な宝物を壊された。なのにあんたは、怒らなかった。……ううん。それどころあんたは、優しい言葉であの子を慰めた。それって、どうしてなの?」


「…………」


 俺はなにも、答えられない。


「……私の時も、そうだった。私は最低な方法であんたを追い出したのに、あんたはなにも言わなかった」


「……俺は、いいんだよ。痛みには慣れてるから。前にも、言っただろ? 俺がどれだけ願って叫んでも、雨は決して止んではくれない。なら俺にできることは、傷つきながら前に進むことだけだ」


「そうやって耐えて、我慢して。1人で勝手に前に進む。その生き方は、素直に凄いと思うわ。私には絶対に、真似できない」


 柊 赤音は、なにかを耐えるようにぎゅっと強く手を握り込む。そしてそのまま、言葉を続ける。


「でもそうやって我慢し続けるだけじゃ、いつまで経ってもあんたの悪夢は終わらない。あんたはいつまで経っても、幸せには……なれない」


「別に、我慢なんかしてねーよ。……それに、幸せになりたいとも思わない」


 きっと俺の人生は、苦しんで死ぬ為だけにある。なら俺は、そうやって生きて、そうやって死ぬだけだ。


「……ありがとう。心配してくれたのは、素直に嬉しい。でも俺は──」



「大丈夫なんかじゃ、ないじゃない……!」



 柊 赤音は、叫んだ。空が割れるくらい強く強く、彼女の叫びが夜に響く。


「私が言えた義理じゃないのは、分かってる! そもそも私が余計なことをしなければ、あんたがこんなに苦しむことも……なかった……!」


「いや、俺は……」


「私は、知ってるの! あんたがどれだけ、苦しんできたのか。あんたがどれだけ、我慢してきたのか。私は誰より、あんたの心を知ってる! だから……言ってよ! ここには誰も居ないから! ここには誰も、あんたを傷つける奴は居ないから! だから今だけは……あんたの心を、聞かせて!」


 柊 赤音はまるで自分のことのように、声を震わせる。……でも俺には、分からない。どうして彼女が、そこまで声を荒げるのか。彼女がなにに、怒っているのか。



 俺にはなにも、分からない。



「…………」


 ……いやそもそも、俺には言いたいことなんてなにもない。蘇芳さんが『先生』の原稿を破こうとした時は怒ったし、みんなに嫌がらせをするなんて言われた時は怒鳴った。


 だから別に、我慢なんかしてない。隠している本心なんて、ありはしない。



「……どうして、俺ばっかこんな目にあうんだよ」



 でも気づけば、そんな言葉が溢れていた。


「なんでなにも悪いことしてないのに、お母さんが死ななきゃいけない。あんなに優しかったお父さんが、どうして俺を殴る? なんでどこへ行っても誰も優しくしてくれなくて、いつもいつも酷いことを言われるんだ」


 言葉が止まらない。視界が、滲む。


「頑張って集めてた漫画の本も。宝物だったフィギュアや、キーホルダーも。全部全部、捨てられた。……なんで、そんなことをするんだ。なんでみんな、俺ばっかり虐めるんだ」


 悔しくて。悔しくて。悔しくて。なのに俺には、なにもできなくて……。


「あの原稿は、最後の宝物だったんだ。冷たいことばかり言う人だったけど、本当は優しかった『先生』が……最期に遺した俺の宝物だった。いつか俺があの原稿を完成させて、『先生』に見せてあげようって、ずっとそう……思ってた。なのになんで……なんで俺ばっかり! こんな目にあうんだ……!」


 人生は、明けない冬だ。知ってる。分かってる。だから俺は、我慢してきた。辛いのも。苦しいのも。痛いのも。ずっとずっと、我慢してきた。



 でも、本当は……



「誰かに助けて、欲しかったんだ……!」



 大丈夫だよって、言って欲しかった。よく頑張ったって、褒めて欲しかった。たったそれだけでよかったのに、いつだっていつだって、それだけが……叶わなかった。


「なんなんだよ! くそっ……!」


 気づけば、涙が溢れていた。どれだけ頑張っても、もう我慢はできなかった。


「……ごめんね、気づいてあげられなくて。でも、大丈夫。これからは私が、貴方を守る。私は魔法少女だから、もう絶対に悪い奴の好きにはさせない。だから、大丈夫。……今まで独りで、よく頑張ったわね」


 柊 赤音が、優しく俺を抱きしめる。長い長い悪夢はもう終わりだと言うように、優しく優しく温かな身体で俺を包み込む。



 温かくて。柔らかくて。優しくて。



 どうしても、涙を止めることができない。だから俺は、ただただ涙を流し続けた。まだまだ深い、夜の中。いつだって悪夢にうなされた、冷たい夜。



 柊 赤音の温かさだけが、優しく俺を抱きしめ続けた。


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