第21話 幸せにね。
「……ねむ」
まとわりつく空気が徐々に蒸し暑くなってきた、とある日の放課後。あくびをかみ殺しながら、ゆっくりと街を歩く。
蘇芳さんの家で暮らすようになってから、もう5日。あの大きな屋敷には未だに慣れないが、それでもだいぶ新しい生活に順応し始めていた。
蘇芳さんは本気で俺に好意を持ってくれているようだし、色々と親切にしてくれる。家族の人たちとはまだ顔を合わせたことはないが、それでも柊 赤音のように俺を追い出したりはしないだろう。
だからとても、幸福な日々を送ることができていた。
「……幸福、か」
一緒に暮らすようになってから、蘇芳さんはいつも俺のそばにいてくれた。……でも今日はお父さんに呼ばれたとかで、先に1人で帰ってしまった。
だから俺は久しぶりの1人の時間をのんびりと過ごそうと思い、学校近くの公園に向かって歩いていた。
「……あ」
……けれどその公園には、先客がいた。
柊 赤音。
彼女はポツンとベンチに腰掛け、まるで救いでも求めるかのようにぼーっと空を見上げていた。
「……っ」
その光景を見た瞬間、どうしてか頭が痛んだ。なにかとても大切なことを忘れているような、そんなどうしようもない感覚に胸と頭が痛む。
「……こんな所で、奇遇ね」
こちらの姿に気がついた柊 赤音は、疲れたような声でそう言った。
「……そうだな」
だから俺はそう言葉を返して、余計な思考と頭痛を振り払い柊 赤音の隣に腰掛ける。
「……どうして隣に、座るのよ」
「ちょっと、話したいことがあるんだよ。……ダメか?」
「……別に。好きにすればいいじゃない」
生温い風が、人気ない公園を吹き抜ける。俺はその風が止むのを待ってから、ゆっくりと口を開く。
「なにか、あったのか?」
「なにかって、なによ」
柊 赤音は、不機嫌そうに息を吐く。
「誤魔化すなよ。お前も、緑姉さんも、橙華さんも、黄葉も。もう1週間も学校を休んでる。それなのになにもないなんて、そんなのあり得ないだろ?」
「…………」
俺の言葉を聞いて、柊 赤音は考え込むように空を見上げる。そしてそのまま、ぽつりと呟く。
「あんたには、関係ないわ」
「……そうかよ」
関係ないと言われれば、それ以上はもうなにも言えない。……拒絶されてまで踏み込む理由が、今の俺にはないのだから。
「それより、あんたの方こそどうしたのよ。……目、凄いことになってるわよ? 大丈夫? ちゃんと寝てる?」
「目つきが悪いのは、昔からだよ」
「それが酷くなってるから、言ってるのよ。……もしかして、なにかあったの?」
「……お前には、関係ないよ」
「……そ。なら、いいわ」
それだけ言って、しばらく沈黙。俺も柊 赤音も同じように黙り込んで、大きな雲の切れ間からぼーっと空を眺め続ける。
「そういやあんた、新しい女の子と仲良くしてるみたいね」
「……どこで聞いたんだよ、それ」
「別に、どこでもいいじゃない」
「そりゃまあ、そうだけどさ……」
どうしてか少しだけ、後ろめたく感じてしまう。……柊 赤音は、俺を追い出した張本人だというのに。
「…………もしかして、その子とエッチなことしてるから、そんな寝不足みたいな顔してるの?」
「ぐふっ。いや、バカかよ。そんなわけねーだろ? ……確かに今は蘇芳さんの家でお世話になってるけど、まだ彼女と話すようになって1週間だぜ? それなのにそんなこと、するわけねーだろ」
呆れたように息を吐いて、柊 赤音の方に視線を向ける。……彼女は真っ直ぐに、俺を見つめていた。
「……なに、見てるんだよ」
「別に。……ただ、間抜けな顔だなって」
「失礼な奴だな。ちょっと自分の見た目がいいからって、人の見た目を貶すのは最低だぞ」
「ふふっ、冗談よ。あんたは昔から……ううん。あんたはずっと、可愛い顔してるわ」
ちょっと目つきは悪いけどね。そう言って、柊 赤音は勢いよくベンチから立ち上がる。そして……そして、まるでいつかの誰かのように、助けを求めるような顔で笑う。
「だからあんたも、いつまでも不幸がどうとか青臭いこと言ってないで、さっさと彼女でも作りなさい。そうすればすぐにでも、楽しい春がやってくるわ」
「…………」
「どうしたのよ? そんな、鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」
「……いや、なんか今日は……いつもと雰囲気が違うなって」
「……そ。あんたにそう見えるなら、ちょっとだけ疲れてるのかもね」
柊 赤音は軽く伸びをして、また空を見上げる。……空はゆっくりと、赤らみ出していた。
「じゃあ私は、もう行くわ。これ以上、あんたと話すこともないしね」
「あ、いや、待って」
「……なによ。まだなにかあるの?」
「……その……本当に、大丈夫なのか? なんていうかお前、今から死地に向かうみたいな顔してるぞ?」
俺のその言葉を聞いて、柊 赤音は驚いたように目を丸くする。
「あんたってほんと……」
そしてそこで一度言葉を止めて、幸福を噛み締めるように小さく笑う。
「私たちは、大丈夫よ。……まあ、ちょっといろいろ立て込んでるのは認めるけど、それでも死ぬなんてことはあり得ない。……だからあんたは、自分の幸せだけを考えなさい」
「……分かったよ。でも最後に1つだけ、緑姉さんに伝言を頼んでもいいか?」
「……なによ?」
「大したことじゃないんだけどさ、俺が風邪ひいた時……ドアノブにお見舞いの品が引っかけてあったんだよ。多分、緑姉さんが持ってきてくれたんだと思う。だからお礼、言っといてくれないか? ありがとう、凄く嬉しかったって」
もう既に、似たような内容のメッセージは送ってある。けど返事は、一向に返ってこない。だからせめて、それだけは直接伝えておいて欲しかった。
「……分かった、伝えておくわ。きっと緑も、凄く喜ぶと思う。本当に凄く凄く、泣いちゃうくらい喜ぶと思うわ」
なにかを隠すように視線を逸らして、柊 赤音はそう言った。そしてバイバイと軽く手を振って、ゆっくりとこの場から立ち去る。
「…………」
俺はその背を、黙って見送った。引き止める理由も話すことも、もうなにもありはしないから。
「もう二度と、会えないかもな……」
どうしてか、そんなことを思った。……いや、そう思ってしまうくらい、柊 赤音は冷たく暗いものを背負っているように見えた。
「…………」
けれどそれは、俺には関係のないことだ。
「……帰るか」
そう呟き、立ち上がる。俺も俺で、やらなきゃいけないことがある。きっと蘇芳さんが、今も俺を待ってくれている。
「にしても、青臭いっか」
それは確かに、そうなのかもしれない。だって蘇芳さんはとても可愛い人だし、あの屋敷は前まで住んでいた山小屋のような家とは、比べものにならないくらい広い。
可愛い女の子に好きだと言われて、大きい屋敷でとても美味しいご飯を3食ご馳走になる。
そんな生活に、一体なんの不満があると言うのだろう?
寧ろそれは、誰もが羨むような生活の筈だ。たとえ彼女が、死んだ俺の父親と同じことを俺に強要してきたとしても、そんなことは大した問題じゃない。
あの当時のことを思い出すのは辛いし、俺の弱い心はもう嫌だと痛みを叫び続ける。……でも俺は、痛みには慣れている。ならそんな痛みなんて無視して、今ある幸福を噛み締めるべきなのだろう。
「問題があるとするなら、それは……」
それはきっと、俺が一度も彼女の期待に応えられていないということだけだ。
「今日も、眠れそうにないな……」
最後にもう一度だけ空を見上げて、俺もゆっくりと公園から立ち去る。
赤い夕焼けが、どうしてか酷く目に焼きついた。
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