9 図書室
朝九時の学校の図書室はとても静かで居心地が良かった。誰もが何かに集中していて、紙を捲る音、椅子を動かす音、小さな咳くらいしか音がない。………この静けさに浸っていると、図書室は不思議な空間だと常々思う。誰もが一つのことに集中しているのに、どこかで周囲と繋がっている感覚。それがいつも私の気持ちを宥めてくれる。
図書室を利用している生徒たちの邪魔にならないように気をつけながら、私は一人で本棚をぼんやりと見て回っている。
暘高の図書室は夏休みだろうが冬休みだろうが閉めることはない。開校している時と変わらず朝七時から夜の七時まできっちり開放されている。そのため図書室を運営する図書運営部の部員たちは長期の休みの間であっても頻繁に学校に来なくてはならないらしい。彼らにとって休み中の開館は迷惑な話なのかもしれないけれど、図書室という日常にはない静かな空間があるのは利用者からするととても助かる。程よく息を抜けるのだ。
………今日はちょっと、家にいても何も手につかなかった。流れ作業のように朝ごはんを作って掃除をして洗濯をしたけれど、それ以降は何も出来ない。夏休みの宿題を片付けようと机に向かったけれど全く集中できなくて困ってしまった。何も出来ずに時間を無駄にするくらいならいっそのこと外に出ようと思い立ち、学校の図書室の存在を思い出したのだ。
本棚を見ながら昨日の出来事を思い出す。事務所に突然やって来た占い師、謎の警告、殺傷の予告、それを防いで欲しいという依頼。今日は午後から占い師が予見した殺傷現場を探すことになっている。なので私が事務所に行ってアルバイトをするのは午後から。それまでは自由時間だ。
占い師の依頼を受けて苫田さんは私に現場捜索に同行するように指示した。優人さんと占い師、二人だけだと目的の場所が見つからないかもしれないということだけど………別に私が同行する必要はないと思う。
だって占い師が見たものは、夜に光る祭りの提灯の映像だ。祭りの提灯が飾られている区画はそんなに広くはない。それを全部見て回っていけば自ずと目的の場所は見つかるに決まってる。祭りの提灯がどこに飾られているかなんてことは優人さんだって知っているはずだ。わざわざ私が付いて行く必要はこれっぽっちもない。
………でも雇用主・苫田さんからの指示だ。逆らうわけにはいかない。
私が殺傷現場を一緒に探すことに誰も反対はしなかったけれど、祭り当日に現場に来ることは反対された。
「相手は刃物を持っている。危険だから当日は来なくていい」
優人さんのその言葉に苫田さんは何も言わなかった。だから当日は一緒にいなくてもいいらしい。優人さんなりの配慮なんだろうけど、でも、と思う。
苫田さんの弟子になったとはいえ私は非力だし力不足だ。魔術師を名乗るにはまだまだ未熟すぎる。現場に同行したとしても、目の前で刃物を振り回す大人に出会ったらきっと何も出来ないだろう。そんな私を苫田さんも優人さんも責めたりはしない。だって所詮私はアルバイト。勇敢に戦うことも出来ないし、優人さんの支援をすることもできない。出来ないことばかりな人間なのだ。
………でも、優人さんはその危ない現場に行っている間、私はおばさんと二人で夏祭りを満喫するのかと思うと、心の隅で寂しさを覚える。
「あら、鶴崎さん」
小声でそう呼びかけられてそちらを向くと、図書運営部のエプロンを身につけた野村先輩が大量の図書を持って立っていた。
「野村先輩。おはようございます」
「ええ、おはよう。夏休みも図書室を利用してくれているのね。ありがとう」
野村先輩は抱えている図書を落とさないように気をつけながらゆっくりとした足取りで私に近づく。私は思わず先輩が持っている図書を半分ほど引き受けた。
「せっかく開いてるんですもん。利用しなきゃ勿体無いです」
「そう? そう言ってもらえるとやりがいがあるわ」
私は野村先輩と手分けしながら図書を本棚に戻していく。図書運営部部員の莉緒に教えて知ったのだが、図書の背表紙についている謎の数字は棚に戻す時の目印らしい。この数字で本のジャンルを分類し管理しているのだそうだ。数学苦手で時々見るのも苦痛な私にしたら、数字を常に見続けなくてはならない図書運営部の人たちの精神が鋼のものに思えてくる。すごいぞ、図書運営部。
「鶴崎さん、ありがとう。助かったわ」
抱えていた図書を全て本棚に戻し終え、野村先輩が小さく手を叩きながらお礼を言った。それに私は首を横に振って答える。
「いいえー。この程度ならお安い御用です」
「長期の休みになると、みんな予定が入ってしまって部活動に来れなかったりするのよね。せっかくの休みだからそれは仕方のないことなのだけれど、でもその分人手不足は深刻で。だからこうやって図書の配架を手伝ってもらえてすっごく嬉しいわ。本当にありがとう」
「そうなんですか。………部長ともなるといろいろと大変なんですね」
私がそう言うと、野村先輩は穏やかな笑みを浮かべた。
野村先輩は三年生。図書運営部の部長さんだ。確か文化祭が終わると同時に部活動を卒業する。次の部長に引き継ぐまではみんなの先頭に立って図書室を運営していかなくてはならない立場なのだろう。だから休みであろうとも関係なしに率先して図書室に来ているのかもしれない。
私は野村先輩の笑顔を見てほんのちょっと誇らしく思う。なんたって困っていた人を助けられたのだ。人助けは気持ちがいい………なんならこのまま午前中いっぱいは図書を本棚に戻す作業を手伝おうかな。特にやりたいこともないのだし。
そう提案しようかと思った時、野村先輩が心配そうに私を見た。
「ねえ、鶴崎さん。もしかして今日、ちょっと元気ない?」
「え? そうですか? そんなことないと思うんですけど」
私は思わず自分の頬を叩く。………別にいつもと何にも変わらない。いつも通りの私だ。野村先輩が心配するような事は何もない。
でも、そうは思ってくれなかった。
「そう? なんだかちょっと気落ちしてる気がする。………鶴崎さんって私の妹にどこか似てるから、そう感じるだけかしら」
「妹………野村先輩、妹さんがいるんですね」
野村先輩は小首を傾げて本棚を見た。今いる棚はお気に入りの医療系の本が並んでいる棚ではなく、料理や裁縫の本が並んでいる家庭的な棚だ。野村先輩はその本の背表紙を一冊一冊人差し指でなぞる。
「ねえ、鶴崎さんってどうしていつも医療系の本を読んでいるの?」
野村先輩の問いに少し驚き、すぐには反応できなかった。
………私が好んで読んでいる本、先輩は知ってるんだ。そのことに、自分の内側を無断で覗かれたような、そんな恐怖を抱く。
表情が強張ってしまった私に野村先輩はごめんね、と言った。
「本当は司書が個人の興味関心に言及するのは良くないことなんだけど………でもつい気になっちゃって。いつも図書室に来たら必ず医療本の並んだ棚を見るでしょう? 何か理由があるのかなって。………もしよければその理由、教えてもらえると嬉しいな」
野村先輩の申し訳ないような表情に、思わず警戒してしまった自分が情けないものに思えた。
野村先輩は別に悪気があって尋ねたわけではないはずだ。それなのに私ときたら………自分の反応を責めて気持ちを切り替える。
「………そうですよね。私、いつも図書室に来たら一番最初にその棚、見に行きますもんね」
いつも迷いなくそこに行くから目立つのだろう。図書運営部の部長である野村先輩がそんな私の極端な行動に興味を抱くのもおかしな話ではない。………それに、そのことを隠すような理由は何もない。
「私、将来お医者さんになりたいんです。それでつい、そういった本ばっかり見ちゃうんですよね」
私の呟きに野村先輩は穏やかに応えてくれる。
「鶴崎さんはお医者さんになりたいの。どうして?」
「母が、私がまだ幼い頃に病死しまして。それが許せなくって。許せないのなら自分がお医者さんになったらいいんじゃないかなって子供の頃に思ったんです」
野村先輩に説明しながら当時のことを思い出す。
───あの時の気持ちは今でも覚えている。
お母さんの診察をしてくれたお医者さんがもっと優秀だったなら、お母さんは死ななくてよかったんじゃないのか。お母さんのちょっとしたサインを見逃さないでいられたのなら、お母さんを助けることができたんじゃないのか。私が最新の治療を知っていたのなら、お母さんはもっと長生きできたんじゃないのか。
………お母さんがいなくなったあの瞬間に後悔が体中に渦巻いて、お母さんがいなくなった原因になったものが全部許せなかった。
あの時の怒りをいつまでも忘れずにいられるようにしよう───そう思って私はお医者さんになろうと決意したのだ。
私の言葉に野村先輩は少し驚いた表情をする。
「そう、そうだったの。………なら、長年の夢なのね」
私は頷く。
「えへへ〜そうなんです。我ながらしつこい性格してるな〜とは思うんですけど、でも諦められなくって」
「ううん。いいと思うわ、私」
野村先輩の言葉に、ほっとする。
………そうだ、そうだった。私はお医者さんになるのが夢なんだ。だから一人前の魔術師になれなくったって関係ないし、苫田さんや優人さんが頼ってくれなくったって問題ない。それらは私の目標の何の糧にもならない瑣末な出来事なのだから、それらのことでいちいち落ち込む必要なんて何もない。
───私は私の夢を叶えるために、一分一秒も無駄にできないのだから。
そう考えると、図書室でぼんやりと本の背表紙を見ていたこの時間が不思議と無意味なことに思えてくる。
私は野村先輩にお辞儀をした。
「それじゃ私、やること思い出したので帰ります」
「………そう。また来てね」
「はい! もちろん!」
野村先輩は私の返事に微笑んだ。
私は小走りで図書室を出て真っ直ぐ家に帰る。一刻も早く勉強しようと思って気が急いた。
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