11 黒猫

 半ば駆け足で階段を降りる。気持ちの整理が上手くいかなくて、ぐちゃぐちゃになってる自分に腹が立つ。と同時に、締め付けられるように胸が痛い。

 外に出て空を見る。雨こそまだ降っていないけれど、重苦しい雲が一面に広がっていて、湿っぽい。どんよりとした空気が町中に充満している。通りを歩く人たちの歩みは、その空気に急かされるかのようにどこか急足だ。その人たちの流れを掻い潜るようにして黙々と歩く。

 ───大丈夫だろうか?

 歩き続けながら、その言葉を何度も何度も胸の中で呟く。

 幼い頃、事件に巻き込まれて居場所を無くした子供の魔術師。引き取られた先は魔警という組織で、そこでは命を軽んじられてきた。いつ命を落としてもおかしくない現場に何度も駆り出されて、時には他人を殺すことを強制される。そして、成人を無事に迎えたら「珍しい」と言われてしまう。

 そんな生き方を、優人さんはずっとしてきた。

 そんな生き方をしてきて、大丈夫、なんだろうか。

 ───全然、大丈夫なんかじゃない。

 もし大丈夫だっていうんなら、優人さんはもっと社交性のある人間に育ってると思う。人との会話を拒絶したりしないだろうし、嫌なことを無視したりしないだろうし、なんなら愛想笑いだってできるはずだ。

 でも、そんな当たり前が全くできてない。ゴミはほったらかしだし、片付けはできないし、電話は無視するし、話したくないことを聞かれたら口を閉ざすし、食事をまともに取ろうとしない。お茶を淹れるっていう誰だってできる単純なことさえできなくて、びっくりするくらい不味いお茶を淹れてしまう。

 これっぽっちの笑顔さえ、一度だって見せてくれない。

 ───そういう当たり前を全部ほったらかしにできるくらい、きっと人生を諦めていたんだ。

 ゴミ溜めで生きようが、まずいお茶を淹れようが、他人と関係が悪くなろうが、全部全部全部、優人さんにとってはどうでもいいことだったんだ。だって、自分の人生がこれからどんどん良くなるだなんて保証も希望も期待も、どこにもなかったのだから。

 明日うっかり死んでしまうかもしれないから、どうでもよかったんだ。

 ───それなのに、そんな人生を送っていたのに、私を助けてくれた。

 自分の人生がこれから良くなる約束はどこにもなくて、どこかに逃げることもできなくて、いつ死んでも構わないと覚悟しているかのような生き方をしているクセに、他人の命は助けようとしてくれた。必死になって、助けてくれた。

 私が魔術師の弟子になることを反対したし、何か事が起きたら自分一人で対応していた。それが黒猫としての役目なのかもしれないけれど、でもそれだけが理由じゃないと私は思ってる。

 ───傷つくのは自分一人でいいんだって、思ってる。

 優人さんのそんな態度に、さっきまでは悲しんだけど、今ではめちゃくちゃ腹立っている。

 なんだよなんだよばかやろーっ! 何一人で全部背負ってるんだよ! 過去に何があったか知らないけどさ! 自分一人の命で全部なんとかしようだなんて、ばっかじゃない?! むしろ思い上がってない?! そうせざるを得ない状況だったとしてもさ! もっと他人を信用してもいいと思う!

 優人さん、いい人なんだから、もっと堂々と生きればいいんだよ!

 自分の命を蔑ろにされるような環境で育ったクセにさ、赤の他人を助けようとしてくれたじゃん。困ったって言ってきた人の手助けをしてきたじゃん。嫌なこと言われたってそれを私に愚痴るわけでもなく、グッと堪えてんじゃん。命懸けで、生きてきたじゃん。

 ───他人を優先して、頑張って生きてきたんじゃん。

 きっと、そんな優人さんのためになら、苫田さんは困った時には手を貸してくれるよ。助けてくれって頼めば、きっと誰かが手を貸してくれるよ。私だって未熟だけど、全然魔術使えないけど、でも嫌なことがあったら愚痴くらい聞くよ。食べたいものがあったら作るよ。手伝って欲しいと言われたら、手伝うよ。でも、電話が鳴ったら取って。そのくらいはして。

 もっと前向きに生きていこうよ。現状を変えられる方法を模索するとかさ、苫田さんに相談するとかさ、なんなら私に話してみるとかさ、してみればいいじゃん。思うような答えが返って来なかったとしても、答えを得るまでもがいてみればいいじゃん。

 ───諦めないでよ。

 いつまでも窓枠に腰掛けて外ばかり見ている人生なんてやめて、もっとやりたいように生きてみようよ。

 急足で事務所に向かう。優人さんが仕事から帰ってきているかどうかは微妙だけど、でも、こんな気持ちを抱いたまま家になんて帰れない。

 とにかくまず最初に文句を言ってやりたい。その内容はまず、黒猫がどういったものなのかをちゃんと説明してくれなかったことについてだ。そりゃ、聞かなかった私が悪いのかもしれないけどさ! でも、文句くらいは言わせてもらう!

 そのあと、これからどうしたいのか聞いてみたい。ずっと続けていくような仕事じゃないもん、黒猫。苫田さんならきっと、黒猫やめてもいいよって言ってくれると思うし。黒猫やめて、どうやって生きていきたいのか聞いてみたい。

 前向きに頑張ってみよう。

 それを、伝えてあげたい。

 事務所のあるコンビニに着いた時には、急足がちょっとした競歩くらいのスピードだったからか、息が弾んだ。弾む息を抑えて、外階段を登る。

 事務所の扉を開けるとき、ゆっくりと一回、深呼吸をした。

「お疲れさまです!」

 扉を開ける。相変わらず事務所の電気は消えたままだ。けれど、いつも座っている窓枠に、優人さんはいない。

 代わりに、苫田さんがいた。

「和香奈さんですか? どうしたんです? 今日は確か、デートでしたよね?」

 少し寝ぼけたような声で、苫田さんがゆっくりと起き上がった。いつも寝転がっている机の上で微睡んでいたらしい。今日は黒色の毛の猫だ。瞳が金色に光って見える。

「デートは早々に切り上げました!」

「切り上げたと言っても、まだ十一時過ぎですよ? 早過ぎませんか?」

「気分が乗らなかったんです!」

 そう言って、事務所のソファにどかんと座った。ソファのスプリングがギシギシと軋むけれど、気にしない。

 今の私は少々ご立腹なのだ。

「苫田さん! 私、黒猫のことを聞きました」

 私がそう言うと、苫田さんの眼が細くなった。瞳が光の加減で怪しく光る。

「黒猫のこと、ですか? どのような?」

「黒猫が魔警で無下むげに扱われていることを、です」

 私の言葉に、苫田さんは、そうですか、と言って黙ってしまった。

 ───なんで、黙るんだよ!

 苫田さんが黙ってしまったことに、少し傷つく。だって黙るってことは、心のどこかでそう思っているってことでしょ? もしかしたら苫田さん自身も、優人さんを無下に扱っているのかもしれないってことでしょ?

 そんなことないと、信じたいけど。

「苫田さん、魔警は酷いところです! 帰る場所のない小さい子供をこき使っているんでしょ? その子に殺人を強制させることもあるって言うじゃないですか! しかも死んでもお構いなしらしいし! 酷過ぎます!」

「………………随分とまぁ、口が悪い」

 低い声で、苫田さんが呟くように言った。

 その声の圧に、どっと冷や汗が出る。

 ………何か、言ってはいけないことを言ってしまったかのような、恐怖。

 でも、怯んではいけない。だって大切なことだもん。

「───苫田さんがいつも優人さんを現場に出すのは、その方が都合がいいから、なんですか?」

 苫田さんの尻尾が強く振られる。その尻尾が何度も何度も強く机を叩く。

 その動きから察するに、どうやら私は苫田さんをとても不機嫌にしてしまったみたいだ。

 ───でも、それでも、本当のことを知りたい。

 黙っていると、苫田さんがため息を吐いた。

「まったく………こうも簡単に説得されてしまうとは。きちんと伝えていなかったのは不手際かもしれないが………………心外ですね」

 苫田さんの声色が怖くて縮こまってしまう。けど、心外、と言われてほんの少し気持ちが落ち着いた。だってそうでしょ? 少なくとも苫田さんにとって私が聞かされたことは、真実ではないみたいだから。

 でも、万富先輩が話したことは全部が全部、嘘ではなかったとは思う。どこからが本当で、どこからが嘘なのか、私にはわからないけれど。

 だから、本当のことを知りたい。

「聞かされたのは、魔警は引き取った子供を現場に出させてはさっさと死なせてしまう、などという話でしょう?」

「そ、そうです! ………その、本当にそうなんですか?」

「ある側面では。………………黒猫が魔視正の保護観察対象である、という話は当然、聞きましたよね?」

「はい。魔術師関連の犯罪で居場所がなくなった子供を、魔視正の使い魔として引き取るって聞きました。それで、魔視正は脈主との関係を良好に保つために、黒猫を魔視正の代わりに現場に出させて、それで黒猫が死んでもお構いなしって」

「そんな無茶な話がありますか」

 苫田さんは不機嫌な声で言い捨てた。

「いいですか? 脈主と魔視正が良好な関係を築くというのは、なにも特別なことじゃない。通常の人間関係と同じことなのですよ。脈主の依頼に魔視正が誠心誠意対応し、そして報酬を得る。それを繰り返すことで、土地しいては地脈の安定を図るのです。それなのにその過程をすっ飛ばして黒猫を使い捨てにして依頼を処理する魔視正に、脈主は良好な関係を結ぼうと考えますか?」

「で、でも、脈主は魔視正がコロコロ変わるのは嫌がるんじゃ」

「対面する相手が始終変われば困るでしょう。ですが、会う度に黒猫が変わる魔視正を、あなたは信用できますか?」

「そ、それは………………」

 信用できない。もし私が脈主であったとしたら、会う度に黒猫が変わる魔視正を見たら、ああこの人は人間として最低だって思うもん。そんな人を信用なんか、できない。そんな魔視正が魔警になんか、いて欲しくない。

「そういうことです。脈主と魔視正の関係は、信頼が土台にあって初めて成り立つものです。それなのに、そこを無視して両者の関係だけを持続させようなど、屑のすることです」

 苫田さんは机から飛び降りて、私の対面のソファに座った。

「………………確かに、屑のようなことをする魔視正は存在します。引き取った黒猫を実験体に使ったり、人ではないモノ扱いしたり、精神的に追い詰めたりする。許し難い行為です。魔警ではそういった行為を禁止してはいますし、行った魔術師に対しては明確な罰則が決められています。ただ、どうしても各事務所内で情報が閉じやすい。その対策も兼ねて長官や副長官が巡回はしていますが、完璧ではない。組織として屑は早々に排除すべきですが、それをできるだけの体制が整っていない。まったく、嘆かわしい。………………あなたは私がその屑と同類だとでも?」

「い、いいえ! 苫田さんはそんなことしない人………人? しない猫だと思います!」

 私の返事に、苫田さんはピリピリとした緊張をほんの少しだけ緩めてくれる。尻尾はまだ強くソファを叩くけれど、さっきまでの強さではなくなっている。

 ヒゲがぴこぴこと上下に動いた。

「確かに、魔視正は事件現場に黒猫を帯同します。それは事件の対応に人手が欲しいという理由もありますが、保護観察の対象だから目を離せない、という理由もあります。なので、魔視正は現場では事件の対応とプラスして、黒猫の安全の保証もしなくてはならない。黒猫が事件の対応をしている間は魔視正は全体を俯瞰し、黒猫のサポートをする。それが魔視正の仕事であり、役割です。だから、黒猫が嫌だと言うのなら、たとえ上層部が許可しようとも、殺人なんてさせません」

 苫田さんのその断定に、ほっとする。少なくとも、優人さんは私が想像したほどの酷い状況には置かれていないようだ。

 けれど同時に想像する。苫田さんの言う屑の魔視正、そういう魔視正は存在するのだ。もしその屑の魔視正に当たってしまった黒猫は、それこそ酷い目に合っている、という事実。殺人を強制される可能性がある事実。

 だから万富先輩の言っていたことは、全部が全部、嘘ではないんだ。

 そのことに恐怖を覚える。

「じゃあ、優人さんがいつも現場に一人で行くのは」

「優人はもうここに来て長いですし、彼は来た時から技術が飛び抜けて高いですからね。彼一人で対応できないことはほとんどありません。それに、彼の素行は大体わかっていますから、保護観察の対象ではありますが自由にさせています。そうしても問題のない子です」

 苫田さんのこの言い方で、なんだか苫田さんと優人さんの関係性がわかった気がした。

 上司と部下でもあって、保護者とその子供。

 だから、上下関係がきっちりしてるのに、それ以上の温かさがあったんだ。

「優人は口下手ですが、馬鹿ではありません。ですから、一人では対応できないと判断したら、彼なりに私にサポートを依頼するくらいのことはしてきます。………あなたが犯人に命を狙われた時も、そうだったんですよ」

 そう言われて思い出した。そういえば、私が殺されそうになったとき、その場に苫田さんもいた。あの時は猫がしゃべったことで気が動転してよくわからなかったけれど、あれは苫田さんのサポートがあったからだったんだ。

 なんだか段々と、自分が苫田さんにした発言がいかに無知で愚かだったのかがわかってきて、恥ずかしくなってきた。

「………………黒猫の死亡率が高い話は、聞きましたか?」

 苫田さんは窓の外を見ながら、そう言った。外は相変わらず雲行きが怪しい。もう少ししたら、雨が降るかもしれない。

「………はい。その………成人になれる黒猫は珍しいって、言ってました」

 珍しいよ、と言った万富先輩の声を思い出す。あの言い方は、物珍しいとか興味深いとかそういった言い方じゃなかった。ただ、変なヤツ、といったような言い方だった。

 その言い方に、私はちょっと傷ついた。

 魔術師たちから見た黒猫は、その程度の扱いなんだなって思ったから。

 苫田さんは私を見ようともしない。窓の外の、どこか遠くを見ている。

「黒猫の死亡原因の多くは──────自殺です」

「自殺………………」

 意外な答えに、一瞬思考が止まる。

 苫田さんは淡々と、言葉を続ける。

「魔術師の関わった事件は、凄惨なものが多い。だから、黒猫として引き取られてきた子供たちのほとんどは精神的に追い詰められている。他人の死体を何体も見たり、身体的欠損があったり、心に致命的な傷を負っていたりします。そして、帰る場所を失っている。子供には抱えきれないものなのでしょう………………希望を失っているんです」

「じゃあ、成人になれる黒猫が珍しいのは………」

 声が、震える。

「ええ。ほとんどの子は引き取られて三年以内に自死を選びます。方法はそれぞれですが………………私もそれで、何人か失いました」

 寂しそうな声色に、気持ちが沈む。

 ───そういう、ことだったんだ。

 多くの黒猫が成人できない理由。どこにも吐き出せない苦悩や後悔が、命を終わらせるという選択で幕引きを図る。だから、黒猫は長生きできない。

 魔警に引き取られた黒猫たちは、どれだけの悲劇を見てきたというのだろう? 魔術師は奇跡を叶えるために努力するって聞いたのに、これじゃあまるで逆だ。悲劇を振り撒いているように思えてくる。

 優人さんが、私に魔術師になることを賛成しなかった理由がなんとなくわかる。なったところで他人に希望を与えることができない存在に成り果ててしまうのなら、そもそもならない方がいい。そう思ったんだろう。

「じゃあ、優人さんは毎日、頑張っているんですね?」

 優人さんの過去に何があったのか知らないけれど、きっと死のうと思った日もあったんだろう。だから今、全部諦めているかのような生き方をしている。でも、それでも死なずに頑張っている。頑張って生きている。

 そのことが嬉しいし、どこか悲しい。

 けれど苫田さんはそっけない。

「あれは単にいじけてるだけでしょう。もう十年も経つというのに、図体ばかり大きくなって精神的にはまるで成長しない。困ったものです。………………だから、和香奈さんが泣くようなことはありませんよ」

 そう言われて、頬がぼっと熱くなる。

 ば、バレてた?! 私が泣いたこと、バレてたの?! 涙はもうだいぶん前に乾いたと思うんだけどな!

 恥ずかしくって俯いてしまう。

「あ、あの! 苫田さんは優人さんを黒猫であることを辞めさせることができるんですよね? 辞めさせようとか思ったりしないんですか?」

 頬をぺちぺち叩く。けれど叩いたところで火照りは治らない。

 きっと今、私真っ赤っかだ! 恥ずい! 早く冷めないかな?! むしろ叩きまくってそれでほっぺたが真っ赤っかの方が、恥ずかしくないかも!?

 苫田さんは私の反応が面白いのか、少し笑った。

「優人が辞めたいと自分で言うのなら、別にやめてもらっても構わないんですがね。彼なら黒猫を辞めたところで犯罪に加担するようなヘマはしないでしょうし、そもそも魔警の仕事が性に合ってなさそうですし」

「………………辞めたいって、言わないんですか?」

 私の質問に、苫田さんは少し考えるように言葉を続ける。

「優人の実家は巫術の大家でしてね。幼い頃から魔術の世界で生きてきたし、そういった教育を受けてきた。だから、今更それを辞める、という選択はないのかもしれません。………まったく、くだらない」

 どうやら、優人さんの実家がなんかすごいみたいだ。そういえば脈主の井倉さんも優人さんのことを坊ちゃんとか呼んでたっけ? フジュツノタイカってのがよくわからないけれど、たぶん魔術師としてすごいことなんだろう。

 そして苫田さんはそれをくだらないと思ってる。同じ魔術師なのに、価値基準が全然違うようだ。

「別に本人が黒猫辞めたいって言わなくったって、強制的に辞めさせることはできないんですか?」

「黒猫は魔視正の保護観察対象ではありますが、ちゃんと魔警からお給金が出るんですよ。それこそ、通常のサラリーマンとは比べ物にならないくらいの額が出ています。それを私の勝手な判断で取り上げる、というのはいくらなんでも乱暴でしょう」

 そ、そういうもんなのか………………。ていうか、そんなにもすごい額が出るんだ? まあ、魔警は多額のお金のやりとりをしてるんだろうなぁってのはなんとなく察してはいたけれど。だってこの間の渡師の報酬額すごかったし、私、借金まみれですし。

 なんだか世の中って、綺麗汚いでパッキリ分かれていないんだなぁ。

 苫田さんがいつもの調子で私に尋ねた。

「誤解は、解けましたか?」

 その優しい声色に、ほっとする。

「はい! その、先走ってしまってごめんなさい」

 頭を下げる。少し前までの自分の頭をぶん殴りたい。このバカもうちょっと考えて発言しろよって。それくらい、私は暴走し過ぎていた。反省。

 私の行動に苫田さんもほっとしたのか、ほんのちょっと毒を吐いた。

「そうですね。もう少し慎重に相手の言葉を吟味する努力が必要です。これは今後の課題です。まったく………………それを知っていて突いてきたとしたら、なかなか悪質な後継ぎです。さすがは万富さんの選んだ子、ということでしょうか」

 どうやら苫田さんは私の暴走よりも、万富先輩の方が気になるようだ。愚痴愚痴と何か言っているけど、よく聞き取れない。

 もしかしたら苫田さんは今回のことを、私が悪い男に騙されて帰ってきた、くらいに思っているのかもしれない。もしそうだとしたら、苫田さんは結構、過保護な人なのかも。

 心の奥底の不安が、ようやく落ち着く。少なくとも、優人さんは苫田さんに見守られていたみたいだ。本人がそれに気づいていたのかどうかはともかくとして。それがわかっただけでも、デートに行った甲斐があったのかもしれない。

「それにしても、弟子というのはなかなかに厄介なものですね。想像していたよりも、やることが多い」

「す、すみません………」

「いいえ、これは和香奈さんが謝ることではありませんよ。私の思慮が浅かっただけのこと」

 そう言うと、苫田さんは耳をピクリと動かして事務所の扉に視線を向けた。

 釣られて私も扉を見る。すると、扉をコンコンとノックする音が聞こえた。

「ちわーっす! 笠間農具店です! って、ありゃ?」

 扉を開けて入ってきたのは、筋骨隆々って感じの真っ赤な髪をして黄色のバンダナを頭に巻いている男の人だ。なんか存在感が強くって、そこにいるってだけなのに圧倒される。ついでに声がでかい。

「嬢ちゃんはお客さん? でもアイツいねぇな。魔視正さん! 葦原はどこ行った?」

「優人なら脈主の庭瀬さんのところですよ。その荷物は新しい日本刀ですか?」

 苫田さんの言葉に、来客の手元を見る。その手には、布に包まれた細長い棒があった。なるほど、この人農具店とか言ってたけど、刀を持ってきた人なのか。

 ………………………そういえば、刀が折れたって言ってなかったっけ?

 優人さんの、井倉さんの依頼を処理した時の報告を思い出す。

 そうだ、確かあの時日本刀が折れてしまったって言ってた。え? ってことは、優人さんは今、折れた刀を持って現場に行ってるってこと? それって駄目じゃね?

「庭瀬さんっつーと、海沿いのヤツか! そりゃ仕事でか?」

「ええ。なんでも嫌がらせ………いや、悪質な趣味の後始末をさせられているんですよ。困ったものです」

 苫田さんの言葉に棘を感じる。どうやらその庭瀬さんという人は苫田さんの怒りを買っているらしい。怖いもの知らずな脈主だ。

「マジかよ! どーすっかなー、そこまで持ってくかぁ?」

 来客は面倒臭そうに頭を掻く。その様子に、収まっていた心配がぶり返してくる。

 も、持っていってあげてよ! 折れた刀でもし戦闘にでも巻き込まれていたら、優人さんうっかり死んじゃうかもしれないじゃん! 頼むから!

 そわそわしながら、来客の決断を待つ。

「んー、いっか。よしわかった魔視正さん! また来るわ!」

「ちょっと待てーっ!!!」

 席を立って来客を引き止めた。そんな私の行動に驚いたのか、苫田さんが目をまん丸くしている。

 でもこれ引き止めるのが正解じゃね?!

「また来るじゃなくて、届けましょうよ刀! その庭瀬さんとかいう人のところまで! 優人さん、きっとそれ必要としてますよ!」

 来客に近づく。なかなか大柄な人だ。たぶん、筋肉があるから余計に大きく見えるんだと思う。

 来客も私の発言に驚いたのか、ぽかんとした表情をしている。

「なんだぁ? あんた、お客さんじゃねえのか?」

「すみません。私の弟子です。和香奈さん、落ち着いて」

「いやいやいや苫田さん、きっと優人さん、刀必要ですよ! だって仕事ですよ? 折れた刀じゃどうしようもないですよ!」

 見ると、苫田さんは首を傾げている。

 そして来客はなぜか怒っている。

「なんだあいつまた刀折りやがったのか!」

「まあ、新しい刀の方が、いいんですかねぇ? その辺り、私はとんと分からなくて。どうなんでしょう?」

「刃物は新品が一番ですよ! 包丁とかハサミとか、安物は使う度にどんどんダメになっていきます!」

「許さねえ! いつもいつもポキポキポキポキ折りやがって! 俺の刀はおもちゃじゃねーんだぞ!」

「そういうものなんですか。なら、届けてもらった方がいいですねぇ」

「はい! そうしてもらいましょう! ということで、お願いします! その刀、優人さんのところまで持っていってください!」

 丁寧に、でも勢いよくお辞儀をする。直角九十度だ。

 来客は私の行動に少し驚いたみたいだけれど、おうよ! と答えてくれた。頼もしい。

「アイツには俺が汗水垂らして作った刀の価値ってもんをわからせてやらねぇとな! だが、問題がある」

 わからせてやるという発言が少々気になった。けれど、

「問題?」

 刀を優人さんのところに届けてもらうことに、どんな問題があるというのだろう? 思わず顔を上げて来客を見た。

 来客は頭をポリポリと掻く。

「その、庭瀬さんってのはどこにいるんだ?」

 ………………………………………………………………うん、知らない!

「苫田さん! どうしましょう? 私も知らないです! どうしたらいいですか?!」

 苫田さんは私たちの反応を見て、右手で二回、ソファを叩いた。

 すると、苫田さんがいつも使っている机の引き出しのひとつが勝手に開き、中から一枚の紙が飛んで私の手元にやってきた。見ると、その紙は地図だった。この近辺を描いた地図で、今私たちがいる事務所のところがピコピコと赤色に点滅している。そして、そこから一本、道路をなぞるようにして黄色く光っている線がある。

「その地図を貸しましょう。光っているところを辿れば目的地に行けます」

 苫田さんはそういうと、いつも寝そべっている机までジャンプして、いつものところで丸まった。どうやら苫田さんは一緒に来ないらしい。

「わかりました! ありがとうございます! さあ、行きましょう!」

 来客は私が手に持っている地図に驚きながら、おう、と返事をしてくれた。



「それで、道はこっちであってるんだな?」

 笠間農具店、と書かれた小型トラックの助手席に座っている私は道案内係だ。苫田さんが貸してくれた地図を睨む。うん、大丈夫、道は間違っていない。

「大丈夫です! そのまま海に向かって一直線でお願いします」

 事務所を出発して一時間以上。なかなかな田舎にやってきた気もするけれど、苫田さんが貸してくれた地図はこっちだと指しているから、間違いないはずだ。地図から視線を上げて、外を見る。

 小型トラックは舗装されている道を走っているというのに、無駄に揺れる。そんな中で地図を見るもんだから少々車酔いしてるけど、音を上げるほどじゃない。

 外は予想通り、雨が降り始めている。しかも段々と台風みたいになってきていて、風が徐々に強くなってきた。遠くには海が見えるけれど、この雨風に白波が立っていて穏やかじゃない。

「嬢ちゃん、あとどのくらいで到着だ?」

「え? えーっと、あと十分くらい? ですかね?」

 地図の上部には到着までのおおよその距離と時間が表示されている。その表示を見て質問に答えた。

 ずっと辿ってきた黄色の線は、庭瀬化学工場、というところで止まっている。どうやらそこが、脈主の庭瀬さんがいるところらしい。そこに優人さんがいるという確証はないけれど、手がかりはそれしかない。まずは庭瀬さんに会って話を聞いてみよう。

 ガタゴトと揺られながら、トラックは目的地の庭瀬化学工場に到着した。なかなかでっかい工場だ。正面玄関を探して道路を走る。

「なんだぁ? 休みか?」

 正面玄関らしきところに着くと、ゲートは閉まっていた。ゲートの出入りを管理していそうな箱型の建物の中には、人の気配はない。

「休み、なんですかね?」

 困ったなぁ。ここ以外に手がかりはないっていうのに。

 ふと視線をやると、ゲートの側にある人専用の扉が少し開いていることに気づいた。その開き加減が、うっかりちゃんと閉めるの忘れてました、くらいの隙間。これってひょっとして、工場内に誰かがいるってことなのかな?

 なら、その誰かは優人さんなのではないかな?

「私、ちょっと中を覗いてきます! 刀、持っていきますね!」

「え? 覗くって、おい!」

 そう言って私は移動中ずっと大切に持っていた布に包まれた日本刀を抱えて、トラックの助手席から飛び出る。外はものすごい風と雨で少しよろけたけれど、駆け足でゲート横の扉を開けて中に入った。

 入った瞬間、なんか変な感覚がざあっと体を通り抜けていった。

 けど、気にしている場合じゃない。小走りで工場の奥へ奥へと行く。

 後ろでトラックを運転してここまで連れて来てくれた笠間農具店のお兄さんが何か叫んでいたけれど、雨風でかき消えてしまう。気にせず走った。

 建物はどこも施錠してあって入れない。だから、工場の敷地の奥を目指して走る。雨で全身ぐちょぐちょに濡れてしまったけれど、このくらいへっちゃらだ。

 ───だって、優人さんがもしこの状況で刀を必要としていたのなら、一刻も早く届けなくっちゃ。だから、立ち止まっている場合じゃない。

 ふと、建物の間から海が見えた。その海に、色が見えた。

 優人さんの魔力の色。タンポポのような、可憐な黄色。

 この悪天候でも見間違えることのない、黄色の輝き。

「優人さん!」

 走る。すると、建物の裏手に出たらしく、海から吹き上げる強風に煽られる。その強風で一瞬体勢を崩しかけたけど、走って側まで行く。

 海と工場の間には崖があった。その崖の側で雨ガッパを着て海を睨んでいる男の人がいた。知らない人だ。その人は優人さんを遠目から見ているだけで、何もしていない。ただ、その手にはなんか変なおもちゃみたいなものを持っていた。

 その雨ガッパの男の人は私を見て少し驚いたようだ。けれどそんなの無視する。

「優人さぁ─────んっ!!!」

 思いっきり叫ぶけど、風に掻き消えて届かない。

「なんだ? お前は? 不法侵入者か?」

 雨ガッパの男の人が私を睨んでくる。

 なんだよ、不法侵入者っぽいのはあんたの方じゃん! 私は違うもん! 届け物を持ってきただけだもん!

 そう思って、男の人を睨み返す。

 すると、海の方で優人さんの魔力が一際強く輝いた。

 海に大きな水柱が立つ。

「やったか?! いや、ダメか」

 雨ガッパの男の人が私から視線を逸らして海を注視する。どうやらこの人は優人さんを見ているだけで、手助けするつもりはないらしい。

 周囲を見回す。とにかく、もう少し海に近づかなければ。ここからじゃまるで声が届かない。見ると、崖には簡素で大雑把そうな作りだけれど、階段らしきものがあった。そこまで走る。

「おい待て不法侵入者! 海に出るな! 危ないぞ!」

 雨ガッパの男の叫びなんか無視して、階段を急いで降りる。階段は途中から海に浸かっていて最後まで下り切れない。本来は下り切れるんだろうけれど、この雨風で水嵩が増しているのかもしれない。

 激しい波が階段を打ちつける。けれど、下りれるギリギリのところまで下りて、思いっきり叫ぶ。

「優人さぁ─────ん!!! 刀、持ってきましたぁ─────!!!」

 全身が痛くなるくらい精一杯の声量で叫んだ。

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