第21話/中間涼香①

 それからしばらくは、何事もなく過ごした。

 というより、気配を消し、何事も起こらないように努めた。人の噂も七十五日。奇人の噂もほとぼりが冷めれば消え去るだろうと思っていた。千絵との関係も、時間が経てば修復するキッカケが見つかるのではないかと朧げに考えはじめていた。


 生活習慣は大きく変えた。早朝に起き、五キロのランニング。戻ると、筋トレに励む。なにせ身体が重いのが不快でしょうがない。第一印象も良くないだろう。まずは健康的な肉体を取り戻すことを心掛けた。そして、読書。授業中は教師の目を盗んでこっそりと本を読み続けた。


 そして、男友達を増やした。以前は女子に囲まれていたせいで、男子生徒は俺に寄り付きもしなかった。亮介を除いて。俺は心の隙間を埋めるように、友達活動に勤しんだ。


 迷ったのは、部活動だった。万年帰宅部だった俺だが、部活を始めてみるのも心の健康にはいいかと思った。しかし、行動が制限されてしまうのではないかという危惧きぐぎる。動くべき時に動けるように、身を空けておくことに決めた。


 目下の問題は涼香だった。あれから一週間。一切、口を利いてくれない。話しかけてもそっけない返事で避けられる。同じ屋根の下で繰り返される苦痛は、無間むげん地獄以外の何ものでもなかった。

そんなある日の放課後。俺の足は生徒会室へと向いていた。ドアをノックして入室すると、目的の人物へ呼びかける。


「鈴ねぇ……」

 そこには一人居残って残務処理をする、鈴音の姿があった。


「あら、どうしたのかね、入学式をサボった新入生クン!」

 これは一生言われるだろうな。なにが七十五日だ……。


「ちょっと、ご相談が……」


 俺は冷や汗を拭いながら、向かいの椅子に腰かける。しかし、良かった。鈴音の反応は以前とちっとも変わらない。灼熱の砂漠でオアシスに辿り着いたような安心感があった。

 俺は千絵と涼香の事を話した。俺がおかしくなった事、その顛末を包み隠さず語った。もちろん、魔女の件は省いて。鈴音は遮ることなく、微笑みを浮かべたまま聞いていた。


「それは爽哉が悪い!」

 話し終えると、開口一番、言い放った。


「それはわかってる。猛省してる。だけど、どうしていいのか全く分からないんだ……」


「涼香ちゃんはわかってくれてると思うよ。なんだかんだ兄妹だからね。仲直りのキッカケが掴めないだけだと思う」

 そう言って、スマホを取り出すと、どこかへ電話をかけ始める。


「あ、涼香ちゃん。久しぶりー。今、大丈夫? 爽哉と喧嘩してるんだって? え、一方的に縁を切った? アハハ! 気持ち悪いって? まぁまぁ、みなまで言うな。だけど、すごい反省してるみたいで、私の所に相談に来たよ。本当に弱ってるみたいでさぁ……」


 俺は思わず前のめりになった。鈴音は指を唇に当てて、黙っておくように促した。


「うん。うん。そうだよね。恥ずかしいよね。でもね、千絵はそういうところあるから。潔癖というかさ。うん。うん。ほとぼりが冷めれば、また仲良くできるよ、きっと。だからさ、今は許してあげたら? 愚兄をさ。たった二人だけの兄妹なんだからさ。……うちは一人っ子だから、そういうのも羨ましいよ。いや、ホント、ホント。アハハ! わかった。伝えとく。それじゃ、またゆっくりお茶でも行こうねー。それじゃあねー」


 涼香は満足げに通話を切った。


「ということだから、涼香ちゃんの好物のクリームパン、エビスヤのヤツ。買って帰ってあげなさい」

 鮮やかな手並みだった。しかし、不意に鈴音の表情がかげる。


「でも、千絵は無理……、かな。聞いてただろうけど、あの子、潔癖というか強情というか、自分を曲げない所があるからね。私が言っても、火に油よ。時間を置く事と、あなたが立派に成長して驚かせる位でないと、取り返すのは難しいかも、ね……。まぁ、精進しなさい!」

 鈴音は困ったような笑顔で、俺の肩に手を置いた。


「ありがとう。俺、頑張るよ!」


「さぁ、行きなさい! エビスヤが閉まっちゃうよ!」

 鈴音はあっちいけの仕草で手を振ると、再び書類と向き合い始めた。


 生徒会室を出た俺は笑顔で手を振る鈴音に向かい、深々と頭を下げる。震える足とは裏腹に、心を温かいものが覆っている。今、俺の魂は激しく輝いているだろう。全てが失われたように感じていた世界で、俺と鈴音の絆は紡がれたままだった。いじけて何もしなかったら、本当に失ってしまう。無条件で与えられるのは、これっきりだ。鈴音の慈悲は焦りへと形を変え、俺の背中を押していた。

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