第20話/絶望③

 授業が始まると、精神的な安息が訪れた。席に着いてさえいれば、人と関わらなくて済む。それに、俺にとっては二度目の授業だ。復習程度に聞き流せばよかった。


 自然と状況の打破に思考が向く。俺はどうやって魂を輝かせればいい。心を揺さぶるなんて、何をすればいい。大里を上回る絶望に、俺は耐えられないだろう。昨夜一晩、考え抜いた結果だった。既に心は折れて、限界すら感じている。俺の魂は元より絶望には向いていない。


 では、感動は。俺は何をしたら、感動する? 心が震える? 俺は感動して泣くという経験が少なかった。映画やドラマを見ても、泣いた試しが無い。テレビで感動の実話なんて銘打っている番組も、泣けなくて途中でチャンネルを変えてしまう。心の振り幅が小さいのだろう。だからこそ、卒業式で涙があふれた時に自分が一番驚いた。自らの意思を無視して流れる涙に戸惑った。


 あの時の感動の要因は……


「……ま……」


 確か、優子と結衣が……


「中間!」

 意識を取り戻すと、俺の名前を叫んでいる数学教師の姿があった。


「はい!」

 俺は返事をして、素早く起立した。


「何をぼーっとしてるんだ! 話を聞いていなくて、この問題、解けるのか?」

 チョークを振る教師の手招きのままに、俺は壇上へ上がる。数式を一瞥いちべつすると、その答えを板面に書き出した。


「……正解だ。ちゃんと話は聞いてろよ」


 はい、すみません、と呟いて、俺は足をるように席へと戻った。よくよく見ると、意地の悪い応用問題だ。そういえば、この数学教師は性格が悪くて有名だった。一発目の授業で見せしめをさらそうとでもしていたのだろう。俺は安堵の息を吐いた。


 席に着いた瞬間、天啓の如くひらめきが走った。そうか、絆だ……。俺は優子と結衣の絆に感動したんだった。信条の大きく異なる二人が、切磋琢磨して困難を乗り越えた。その、あまりの美しさに、俺の心は震えた。羨ましいと思った。もっと傍で見ていたいと思った。涙はその副産物だったように思う。


 そこで俺の気持ちはひるんだ。この醜い姿で深い絆を作り上げることなど可能なのか、と。

 メラビアンの法則というものがある。コミュニケーションにおける人が受けとる印象について、容姿や身だしなみの視覚情報が五十五パーセントを占める。残りの三十八パーセントが声質や話し方の聴覚情報、会話の内容である言語情報はわずか七パーセントに過ぎない。更に、入学式をサボった奇人というレッテルもおまけされている。

 今の俺が話しかけた所で、真意の一割が伝われば御の字だろう。この絶望的な状況で俺は、心を震わせるような絆を紡ぐことができるのだろうか……。いや、やるしかない! 拾った命だ。できる限りのことをやろう! 弱気に流されそうになる自らの心を、無理矢理に奮い立たせたところで、終業のチャイムが鳴り響いた。




「中間! お前、すごいな! 数学教師も驚いてたぜ」


「爽哉でいい。亮介は数学が苦手だもんな」

 俺は未だに思考の渦中にあった。うわの空で亮介の相手をしていた。


「何で知ってるんだ? 入学試験でもぎりぎりでさぁ……」

 そういえば……


「亮介は優子と同じ中学だったよな。木崎優子」

 俺は亮介の話を遮った。


「あぁ、あの地味な才女ね。可愛いよね。恐れ多くて、話したことはないけど」


「この高校に入ったのか?」


「あぁ、入学式で代表挨拶をしてたな。爽哉、狙ってるのか?」


「そういうわけではないけど……」


「他校の女子までチェックしてるなんて、むっつりスケベなんだな、お前って」

 亮介の口元が下品にゆがむ。


「変な噂を流さないでくれよ。これ以上おかしな奴だと思われると、引きこもりになりそうだ……」

 茶化すように俺は笑った。


「違いねぇな。確か、本好きだよな、木崎って。いっつも静かに読書してるイメージしかないわ。狙ってるならお前も、読書に励めば?」


 読書か……。確かに、優子はことある毎に本を読んでいた気がする。図書委員だったし、それが普通だと気にも留めていなかった。話しかけるキッカケにはなるかもな……。


「あぁ、そうするよ」


 メラビアンの法則なんて意に介さない亮介の人懐こさに、今の俺は救われる思いだった。

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