第19話/絶望②

 新しい朝が来た。絶望の朝だ。


 家族が起きる気配を感じて、俺もベッドから重い腰を上げる。

 まず、台所へ行き、母に土下座して謝った。母は、千絵ちゃんに謝りなさい、とだけ言った。その後、起きてきた父にも同じように謝った。父からは幾年ぶりだろう、特大の拳骨げんこつを頂戴した。そして、涼香。涼香は顔も合わせたくないのだろう。こそこそと自室で身支度を済ませると、いってきますの声を残して去っていった。


 涼香が出かけたのを確認すると、俺はすぐに身だしなみを整えて、お隣りへ向かった。

チャイムを押すと、千絵の母親が顔を出す。久しぶりに人の笑顔を見た気分だった。引きった苦笑いではあったが……。俺は心配と迷惑を掛けてしまったことを、心の底から謝った。千絵の父親も出てきて、気にするなと言ってくれた。俺は何度も何度も頭を下げる。そして、千絵さんは……? と、絞り出すように問いかけた。


「あぁ、今準備してるから、もう少し待ってね……」


 少しの困惑を伴って、答えが返ってくる。外で待たせてもらいます、とだけ告げて、俺は外へ出た。門扉を閉めて、門柱の陰に立つ。できるだけ気配を消した。朝の通りを行き交う人々を見て、土下座は無理だな、なんて客観的に考えていた。


 しばらく気配を消していると、行ってきまーす、と澄んだ声が聞こえた。紛れもなく、千絵の声だった。門扉を開けて駆け出す彼女に声を掛ける。


「千絵!」

 聞こえないふりを装った千絵は、速足で歩きはじめた。すがるように追いかけ、謝罪する。


「昨日は本当にごめん! 俺、本当におかしかったんだ。もう二度とこんな事はしない。誓うよ。迷惑かけて、本当にごめん!」

 俺は早口で述べ立てた。


 本当はわかっている。これが逆効果でしかないことを。千絵は高潔にして怜悧れいりだ。たとえガラクタのような言葉であっても、望むべき相手からの言葉しか欲しない。愚者の擦り寄るような謝罪など、豚の鳴き声ほどにしか聞こえていないだろう。だが、今の俺にはひざまずいて許しを乞う事しかできない。


「もう、いいよ……」

 振り返ることなく、千絵は言った。それは、どうでもいいよ、の意を示している。


「もう、しないでね。みんなを、困らせないで……」

 みんなの中に含まれるのは、主に千絵と大里拓馬なのだろうと悟った。しかし、ここが潮時のようだ。


「あぁ。ありがとう。本当にごめんなさい」

 俺はそう言うと、千絵を追うのをやめた。足を止め、十分に距離が開くのを待つ。そして頬に手を当てて、泣いた。行きかう人が珍奇な目を向けている。それでもはばかることなく泣いた。泣きじゃくった。今できる事、今やらないといけない事はこれだけなんだと自覚していた。

 泣き果たすと、少し頭が晴れていた。周りを見渡すと、人の流れが緩やかになっている。学校に遅刻することは厳禁だ。同じてつを踏むわけにはいかない。急ごう。俺は駆け出した。




 学校まで走った俺は、その足で職員室へ駆け込んだ。担任に昨日の顛末を伝え、謝罪する。母から連絡が入っていたようで、激しい追及は受けなかった。ただ、おかしな生徒を受け持ってしまったという悲壮感が漂う表情で、同じ事を繰り返さないようにと厳しく念を押されただけだった。


 教室まで辿りつくと机に鞄を置いて、踵を返す。廊下側の前から三番目。大里の席へと向かった。大里の席の周りは女子で囲まれている。千絵もその一端にいた。歩み寄ると、千絵の表情が曇る。俺はなるべく千絵の顔を見ないようにして、大里に声を掛けた。


「大里」

 弾むような会話が鳴りをひそめる。有無を言わさず、俺は頭を下げた。


「昨日はごめん。迷惑を掛けて……」

 俺は頭を下げたまま、大里の言葉を待った。


「あぁ……中間くん。調子はいいのかい?」


「ありがとう。調子は良くなった。もう迷惑は掛けない。許してもらえるか?」


「もちろん。気にしないで」

 さすが、イケメンは心が広い……。俺は頭を上げて、無理矢理に笑顔を作った。


「ありがとう。それじゃ……」

 俺はすぐに踵を返し、自分の席へ向かった。


 背後からは戸惑うようなざわめきが聞こえたが、すぐにまた元の弾むような話し声へ戻っていった。これでいい。謝罪はした。それを大里は受け入れた。その様子を千絵は見ていた。それだけでいい。これでまた握手を求められでもしたら、俺はその手を握ることはできなかっただろう。素っ気ないようだが、目的は達したのだ。


 席に着いて大きく息を吐くと、亮介が話しかけてきた。


「入学式をブッチするとは、やるなぁ」


「体調が悪くてな。屋上で気を失ってた」


「なんで屋上?」


「俺にもわからん。緊張で頭がおかしくなってたみたいだ」


「大変だなぁ。何かあれば頼ってくれよ」

 亮介は哀れな小動物を見るような目で言った。


「あぁ、そうさせてもらうよ。ありがとう」


 俺は精一杯、笑ってみせた。非常に疲れていた。このまま帰って、眠ってしまいたい。そんな本末転倒なことを考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る