第355話 教授のラブレター騒動4


 生徒達のレポートが挟まったファイリングを渡すと浜元教授は目元に皺を寄せて笑った。


「ありがとう、松永くん。たまに忘れるんだよね。急いでる時とか特に」

「今日はどうして急いでたんですか?」


 先ほどは講義が終わるとそそくさと教室を出て行ったのに、今は研究室の椅子に座ってマグカップに入ったコーヒーを口にしていたようだった。


「妻からの連絡でね。私が弁当箱を忘れたから近くまで届けに来たと連絡が来たから慌てていたんだよ」

「そうだったんですか……」


 浜元教授は俺から渡されたファイリングを開いて、パラパラと生徒達のレポートを確認し始めた。すると、しっかりとファイリングされていなかったらしい紙が一枚、床にぱさりと落ちる。


「落ちましたよ」


 しかし、一見してそれはレポートとは違うものだと分かる。レポート用紙と比べると明らかに半分ほどの大きさしかない茶色の封筒には元からそういうお洒落なものとして印刷された枠の中に『浜元様へ』と宛名が書いてある。そして、裏に差出人の名前はなかったが、封をしていたのはピンク色のハートのシールだった。


 一瞬固まってから、それを浜元教授に差し出すと彼も俺と同じように固まった。そして、しばらくして俺の手からハートのシールで封をされた封筒を受け取ると、不安そうに俺を見る。


「松永くんじゃないよね?」

「違います」


 息をつく暇もなく俺は否定をした。


 見れば分かる。これはラブレターなるものではないか。しかも、宛先はしっかり『浜元様へ』と書かれている。


 いや、まだ中身を見ていないのに判断をするのはいかがなものか。もしかしたら、ラブレターではなく、単位が危ないので助けてくださいと願う生徒の声がしたためられたものかもしれない。


 浜元教授はその場で丁寧にゆっくりとハートのシールを剝がし始めた。粘着力がそこまでなかったから封筒に傷を残すことはなかったようだ。


 俺の目の前で一枚の白色の便箋を浜元教授が開く。


 ラブレターだろうが、単位救済の打診だろうが、浜元教授の許可を得ないまま、俺が覗き込んでいい代物ではないだろう。


 しかし、便箋は照明を受けて、その文字と周りの洒落た枠のデザインなどが透けて見える。しっかりと文章を読むまでには至らなかったが、一つの文字だけ異様にはっきりと目で捉えることができた。


 好きという文字だ。

 単位救済の打診などではなかった。


「……松永くん。君に頼みたいことがあるんだが、聞いてくれるかい?」


 嫌な予感がする。


「なんでしょうか?」


 昔から周りにいる人間の運が悪いせいか、用事を頼まれることが多い。俺が物事の解決に向いている人間とは全く思えないのだが、浜元教授もどうやら、俺に用事を頼むらしい。いや、面倒事を押し付けると言う方が正しいのかもしれない。


「この手紙の差出人を見つけてくれないかい?」

「は?」

「手伝ってくれるのなら、手紙の中身を見せよう」


 俺は思わず両腕を組んで、首を捻る。


 差出人の名前が書かれていないラブレターの持ち主をこの大学の中で探し出すのは不可能に近いだろう。一学年に何人いると思っているのだ。俺のいる創造学科でも一つの学年に九十人はいたと思う。さらに学部はあまり覚えていないが、十は越えていたはずだ。さらに四年生までいるとしたら、学生だけでもその数は一人の人間である俺にとっては膨大なものとなる。


 しかし、浜元教授のことを知っていて、彼に好意を寄せる生徒ということなら、ある程度絞ることもできるのかもしれない。


 つい昨日、宮岸に恋愛小説を早く書けと催促されたことだ。他人のラブレターでも読めば、上手い展開を思いつくことができるかもしれない。


「私は生徒達のプライベートにそこまで干渉することはできないし、差出人を探すとしたら同じ生徒の方がいいと思うんだ」

「分かりました。手伝いましょう」


 浜松教授に差し出された便箋を受け取る。

 内容はこうだ。


『突然のお手紙、すみません。いつもあなたのことを目で追ってしまいます。あなたの優しそうな瞳。柔らかい声。あなたの全てが好きです。今はまだ面と向かって告白する勇気がないので手紙で失礼しました。


 いつか必ず告白するので待っていてください。』


 俺は便箋を折り目に沿って元通りに折ると浜元教授を見た。


「いつか必ず告白すると言っているので今すぐラブレターの差出人を探す必要はないと思いますけど……」

「それでもできれば早く探してほしいんだ」


 ラブレターの差出人を探してほしいということは、もしかして。


「告白を受け入れるんですか?」


 先ほど、妻からの連絡で慌てて講義後のホワイトボードにうっすらと文字を残したままにしてしまうほどの人が、生徒一人からの告白を受け入れるとは思えないが。


 浜元教授は困ったように眉尻を下げた。


「私は既婚者だよ。そんなことはしない。もちろん、告白をされるのなら断るさ。でも、若者の失恋は早い方がいい。特に私のような既婚者のおじさんを相手にするような恋は早く終わらせて、次の恋を求めた方がいいだろう?」


 浜元教授の言葉ももっともだ。


 既婚者相手への恋など倫理観もへったくれもない。そのような不貞行為は許されない。例え、相手がどのような身分や立ち位置の人間だったとしても許されるべきではないのだ。


「分かりました。あ、便箋と封筒を預かっていてもいいでしょうか?差出人を探す時に役立てたいと思うので……」

「くれぐれも丁寧に扱うように」

「分かりました」


 俺は浜元教授から預かった封筒に便箋を入れ、連絡のためにと教授のメールアドレスを教えてもらうと「友人と待ち合わせをしているので失礼します」と浜元教授の研究室を後にした。

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