接続詞

 接続詞、それは小説の愛嬌である。いや意味わからんが。

 どうでしょうか、みなさん、接続詞、使ってますか? 小説では接続詞を減らすべきとか書かれた文言を見て、なるほど削ろうと削ってやいませんか?


 宗教か通販のような感じになってしまったが、接続詞に妙なコダワリがあるからである。実は、というかなんというか、日本語にはとてつもない数の接続詞があるのです。暇つぶしにここまで読んできた方は分かるでしょうが、数が多きゃ、そりゃ分からなくなるってものです。また小説の場合、接続詞が多い文章は分かりにくいとか言われるから尚更である。


 で、私はどういうのを頻用するかというと、これが困ったことにどれもまんべんなく使っているのである。そういう意味では、私の小説はすでに邪道の域に到達しているかもしれん。分からん。ノーロープ有刺鉄線電流爆破蛍光灯デスマッチは嫌だ。


 創作者の誰しもが慣れ親しんでいるのは、順説と逆説である。

 順接というのは、前の文章があるから当然のごとく後ろの文章も真であるとする接続詞である。バカに説明させるから、こう、意味のわからない文章になる。


 だから、よって、ゆえに、そういったのである。これなら分かる。よく使う。

 もちろん、逆説は、しかし、だが、とはいえ、などである。

 割とありがちなのは、逆説として『が、』を使いまくっているのに突然『が、』を順接として使ってしまうパターンである。脳が混乱する。


 ここで例文を書こうと思った。が、恐ろしいことに順接の『が』の例文がまったく思いつかない。どうやら、すでに私の脳は小説的な日本語に侵されているらしい。かゆうま。


 とりあえず、ここに懺悔しておこう。私は昔、『が』が連続する小説を読んで、あまりに頻発するので『逆説が連続すると読みにくいので直しては?』と言ってしまったのだ。これ、未だに思い出すくらいのトラウマである。


 別に何があったわけではない。ただ、今にして思う。逆説が連続して何が悪いというのか。自問自答を繰り返す主人公のシーンなんて『だがしかし』『いや待て』『けど』と連続で考えるほうが迷いが見えて緊迫感が生まれる。地の文の独白なんて支離滅裂な方がいいときすらある。失敗した――。

 

 まあ凹んでいてもしょうがないので接続詞の話に戻るが、数多ある接続詞のなかで、私が特に偏愛しているのは『そして』『あるいは』『だが、しかし』である。どれも意識的に、ここぞの場面で使っている。効果があるのかは分からん。


 でも、分からんなりに、どれかひとつかふたつ、これ、と決めた接続詞を虎の子のように抱えておいて、ここだー! と投げるのは有効だと思っている。投げられた虎の子はかわいそうだがネコ科だから大丈夫だろう。ちなみに、このエッセイというか創作論では、転換がらみの接続詞がここぞで使われている。


 さて。


 とかである。どこらへんがここぞやねんと言われる方も多かろうと思うが(コレは分かる)、『ここぞ』が終盤と思っているその幻想を何とやらです。


 創作の『ここぞ』というのは、結論の手前である。


 ……分からん。名言っぽく言おうとしたのを謝罪する。すまぬ。正直、ついさっきまでそう思っていたのだが、ここにきて文章に起こしてみたら、本当にそうか? と疑問が湧いてしまった。せっかく読んでいただいたのに申し訳ない。


 だが、もしかしたら真剣に見直すポイントかもしれないので、謝るよりもむしろお礼をいうべきかもしれぬ。というわけで(でもないが)、


 お付き合い、ありがとうございます。

 ……まだやめませんからね?

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