第5章 エルフの森
草原の迷子
「ここから逃がして差し上げます、モノ様」
鏡越しに見た
彼女は心からモノのことを思ってくれている。そこに疑いを差し挟む余地などなかったが、それでもモノには彼女の瞳に宿る光が異様に感じられた。
その光は毒の金属で作られている白銀の刃の光を思わせたからだ。
しかし、モノには自分が感じたことを、うまく言葉にすることができなかった。
「心配いりません。大丈夫。協力してくれる人達がいるんです」
モノは黙ったまま、鏡の中のファニの目を見ていただけだったのだが、彼女はそれを不安からそうしているのだと思ったらしい。
「アタシね、ずっと変だなあって思ってたんです。生まれた時から第六市民だって、貧乏で、バカにされて、何でなんだろうって。あの人達が教えてくれたんです。アタシ達は元々この国の人間じゃないんです。元々は草原で自由に暮らしてた一族だったんですって。それをこの国が無理やり連れてきて第六市民とかそういう……ええと、カイキュウ、そう階級に組み込んで、そんなのって間違ってるって。それは正しくないって、そう教えてもらったんです」
彼女はモノの髪をいつものように優しく櫛削りながら、手を止めることなくそう言った。
手の動きもいつもと変わらない。ただ、その瞳だけが異様な輝きを放っている。
鏡に映る二人の少女は、年齢と背丈を除き、髪の色も瞳の色も、そして顔立ちもよく似ていた。
元々、ファニは目覚めたモノの身の回りの世話をするために毎日交代で通ってくる下女の一人であった。
翠玉の杖を抱え、じっとしているだけのモノの髪を梳かし、体を清め、着替えをさせる。その後はモノが閉じ込められている殺風景な石造りの小部屋の掃除をする。
モノが人形のように喋らないことを前もって知らされているのか、下女達はモノに無駄に話しかけることはしなかった。
ファニも最初はそうであった。
しかしある日のこと、何度目かの当番で慣れて気が緩んだのか、ファニはいつものようにモノの身嗜みを整えた後、掃除を始めながら、つい何気なく歌を口ずさんだ。
それは彼女が家の手伝いや仕事中によく口ずさむ歌だった。学校など通ったことのないファニには音楽の素養もない。それは彼女の祖母や母、あの貧しい町の中でファニと同じ区画に住む女達の中で歌い継がれてきた歌だった。
草原よ、草原よ
風が運ぶ 遠い昔の英雄の歌を
緑の草原よ、広い草原よ
風が残す 戦士の誇りを
その勇ましい歌を
背後で大きな音がして、ファニは驚いて歌を止めた。
振り返ると、それまで無反応に椅子に腰かけていた少女が立ち上がり、藍色の大きな目でじっとファニを見つめていたのだった――。
「――モノ様、アタシ、モノ様のこと他人だとは思えないんです。畏れ多いことかも知れませんけど、アタシ達よく似ていますよね。交代で来る他の人にも言われました。まるで姉妹みたいによく似てるねって。
モノ様、アタシの歌を気に入ってくれたでしょう? あの草原の歌。でもアタシは本物の草原を見たことがないんです。生まれてから、ずうっと、この街しか知らない。草原は歌の中にしかないもの。でも、それは失くしちまったんじゃなくて、取り上げられたものなんだって、そう教えてもらったんですよ」
ファニを見上げようと、首を傾けたモノの肩に薄茶色の髪が一束滑り落ちた。ファニは慌てたように笑って、モノの顔を真正面に向けるように促し、再びこぼれた髪をすくい上げた。
「あの人達にモノ様のことを相談したら、そりゃあ心配してくれましてね。きっと助けてあげると約束してくれたんです。アタシ達が第六市民なんて呼ばれてるのと同じ。モノ様だってこの国の被害者ですよ。だから……逃げましょう。一緒に。一緒に逃がしてもらって、そんで草原を見ましょう
この草原の歌に英雄って出てくるでしょう。アタシはね、この英雄って、小さな頃にばあちゃんから聞かせてもらった昔話に出てくる黒い騎士様じゃないかと思ってるんですよ。貧しいけれどキレイな心を持つ娘の願いに心打たれて、その娘を守ると決めた黒い騎士の話。この国の兵隊どもは銀色のピカピカの、いけ好かない鎧を着てますけどね。だから黒い騎士様はこの国の家来じゃないんです」
「あの人は――」
一瞬だけ心の奥に浮かんだ面影を追って、モノは掠れた声を出した。
遥か遠く、かすかな記憶。
その代わり、彼女の家族と草原の村には手を出さないと約束をした。
鏡の中のファニが目を丸くしている。
めったに声を出さないモノが喋ったので驚いたのだろう。
そこに映る自分、ファニよりもずっと幼く見える自分を見て、モノは再び口を閉じて視線を落とした。
ずっと村と村人を守ってと願ったモノに、生きているうちは約束を違えぬと言った銀色の騎士。
彼がその後どうなったのか、人柱にするために攫った少女との約束を、彼がどう守ったのか。
それを知る者は、すでにこの世に一人もいない。
永遠にと願い、そうして交わしたはずの約束さえも擦り切れてしまうほどの時間が流れ、すべてはモノを残して遥か彼方へと去っていった後である。
――もしかして、これは罰なのだろうか。
矮小な人の身で「永遠に」などと身の程知らずな願いを抱いた、その報い。
歪な魂はどこにも行くことができないまま、いずれは大きな力の一部と成り果てるだけ。それは「死」ですらないのだろう。
「モノ様」
ふわりと抱きしめられた。その感覚はどこか懐かしい。
「逃げましょう、モノ様。ね、逃げましょう。お願いです。アタシと一緒に」
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