第26話 夜が終わりません!

 僕はこの時、初めて理解した。

 人間とは、本当の本当に理解の及ばない現象や存在を目の当たりにすると、思考が止まるどころか身体から抜け落ちる生き物なのだと。

 正真正銘の驚きとは、驚愕の極致とは、そもそもの思考が消え失せることを言うのだと。


「……………………」


 ほんの数ミリだけ開いたドアの隙間を通り抜け、僕はその先に広がる空間を捉える。そしてその空間に鎮座し、深夜の闇と静けさをものともせず話す二人組の存在を見て、思考が零れ落ちた。


「お前のせいでローゼ帰っちまったじゃねぇか! まだ何も誤解解けてねぇのに、明日どんな顔して合わなくちゃいけねぇと思ってんだ!」

「大丈夫! ハイム様とローゼちゃんならどんな壁もきっと乗り越えられるし、そもそも目が覚めたら二人ともいなくなっちゃうから!」

「だからお前のその認識は何なんだよ! いい加減にしろ!」


 メガホンを介して話しているかのような、際限も遠慮も全くない大声同士のぶつかり合い。身体の芯まで届く轟音の衝撃と振動。それらが緊迫感の欠片もない空気を助長し、つまらないコントや漫才を見ているような雰囲気を醸し出している。

 だがそんなふわっとした空気のおかげか、僕は逆に思考を取り戻すことができた。


『ほ、本物?』


 あれって、原田芽亜さんだよね? 僕が大学時代に唯一話した女性の原田さんだね? いつも一人で過ごしてて、カバーのかかった本を常に一冊抱えてて、食堂のカレーが本に垂れてよく右往左往してた、あの原田さんだよね?

 え、何あのはきはきとした明るい表情。流石に別人だとしか思えないんだけど。人って就職して数年経つと、あんなに明るくなったりするものなの? 


「なんか今日夢全然覚めない! 私どれだけ疲れてたんだろ——ぁ」

「っ!」


 その時、僕は反射的にドアを閉め、息を潜める。しかし、その行為が無意味なことは、直前の彼女の視線の向きと、その表情から察していた。


「ん? どした? 今度はいきなり黙りこくって」


 バレた。完全にバレた。今確実に目が合った。今のハイムのセリフで、彼女の姿が簡単に想像つく。

 まぁ冷静に考えれば、別に顔を隠す必要もない。だが忘れているかもしれないが、僕は究極のぼっち人間である。女性と視線を合わせるなど、柴犬に国家の政治をやらせるようなものだ。四つん這いの動物にはハードルが高過ぎて全体像が見えない。


「————」


 ドア越しに近づく気配を感じ、僕は急いで寄りかかるドアから距離を取る。その微かな足音を聞いてか聞かずか、間を置かずすぐさまドアが開いた。


「ぁ……あ、あああ、天木、君?」

「え、ええっと……久しぶり」


 別れて数年が経ったカップルみたいな反応が、自然と双方の口から洩れる。その様子を後ろで見つめるハイムは、不審過ぎるその一部始終に完全にノックアウトとなり、木の木目のような表情を向けて硬直していた。


「わ、私……ゆ、夢の中で、あ、天木君と再会……よ、よし!」


 すると突然、彼女が僕の両手を掴む。

「え? ど、どうしたのいきなり——」

「——こっち来て下さい!」


 そして次の瞬間、原田さんはそのまま宿舎の階段を駆け下り、僕の身体は勢いよく引っ張られる。

 その最後の最後まで、ハイムの口が収まらなかったことは、言うまでもない。


—————————————————————————————————————


 そうしてやってきたのは、宿舎から少し離れた住宅街の一角。ここは主戦場から少し離れた場所だったため、一切の被害が出ていない。僕らが唯一、完璧に守り切った場所だと言えるだろう。

 ちなみに途中の残骸の山々だが、彼女はあの光景も夢の一部だと考えているらしい。夢という言葉の偉大さを、僕は改めて痛感した。


「はぁ……はぁ……落ち着いて私。ここは夢なの。現実世界の人ではないんだから、何一つ気負う必要はない。わかるでしょ?」

「あ……あの、どうしたの? というか、この状況理解できてる?」


 何で現実の人間が⁉ みたいな展開はついさっきやったばかりだから、そこまで驚きはしない。後で冷静になってくれたタイミングを見計らい、こっちに来た時の話を聞けばいい。もしかしたらあいつみたいに、僕よりも早くこの世界に来ているかもしれないし。

 あと、装置の声も聴いたはずだから、何て言われたのかを教えてもらおう。それと……どうしてハイムに認知されていたのかも。


「大丈夫。さぁ言うの。目の前の夢の欠片たる天木君に、今の私の気持ちを……」

「……あのぉ、原田さん?」

「えっ⁉ あ、あぁごめんね! いきなり夢の中に召喚されたと思ったら、久しぶりに会う私に引っ張られるんだから、驚くよね!」


 う~ん、どうにも認識の違いがあるとやりずらいなぁ。


「た、多分状況が理解できてないと思うんだけど、実はこの世界は——」

「——好きです!」


 ……………………ひょ。

 風船が抜けるような音を唇が奏で、時間が止まる。再びポロリと転がり落ちた思考を拾い上げようと意識の手を伸ばすが、正直、拾い上げるのはそう簡単ではなさそうだ。


「あ、あああえ、え、ええ、ええ————えぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

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