第140話 山へ(13)
湯気の出そうな鼻息を吐きながら迫りくる凶獣。シュヴァルツ様はイノシシの攻撃を受け止めながら、ジリジリと後退していく。
イノシシは顔面に槍を五本生やしているのに対し、将軍の得物は戦斧一本のみ。どう考えても人間に分が悪い。
シュヴァルツ様の背後の茂みにはゼラルドさんが立っていて、援護射撃をしている。しかし、矢はことごとく鋼の毛皮に弾かれてしまう。まったくダメージは与えられず、時折鼻や目元を掠める矢じりに、獣は苛立ち獰猛さを増していく。
「ぐっ」
こめかみの角と何合か打ち合い、形勢不利と感じたか、シュヴァルツ様はくるりと身を翻した。そして、全速力でゼラルドさんの方へ掛けていく。コートの裾がはためく様に、益々興奮の雄叫びを上げるミツヅノヨロイオオキバイノシシ。
獣はギラつく瞳の焦点をシュヴァルツ様に合わせ、スリングショットの
頭だけ振り返ったシュヴァルツ様の焦った横顔が映る。
イノシシは牙のある口を大きく開けて、哀れな人間を引き裂――
ズボッ!!
――あ、落ちた。
落ち葉に隠してあった落とし穴に嵌った。
一方向から攻撃をしていたのは、この罠に誘い込む為だったのだ。
短時間で掘った穴はイノシシの片足が沈む程度の深さしかない。それでも、歴戦の猛者にはそれだけの隙で十分だった。
彼はバランスを崩して傾いた獣の喉元に、掬い上げるように下から斧を振り抜いた。
――耳鳴りがするほどの静寂が辺りを包む。
シュヴァルツ様は斧の血を払い、目を閉じて呼吸を整える。微かに唇が動いたのは……多分、祈りの言葉を呟いたのだろう。それから、木の上の私達に快活な笑顔を向けた。
「今日の晩飯ができたぞ」
◆ ◇ ◆ ◇
ゴトゴトと小気味よいリズムで馬車が揺れる。
客車の上座にはシュヴァルツ様、その隣には私。対面の席のトーマス様とアレックスはお互いを支え合うように肩を寄せて寝息を立てている。
……今日は疲れたもんね。
幸い、トーマス様の怪我はそれほど酷くなく、少し休めば自力で歩ける程度に回復した。突き刺さったかと思った角も実は掠っただけで、「下ろしたてだったのに!」と破れた服を嘆くくらい元気でした。
私は往路より重くなった荷台をこっそり窺う。
あの後、ミツヅノヨロイオオキバイノシシは内臓だけ抜いてお持ち帰りすることになりました。
狭い荷台スペースを占拠しているのは伝説の獣と……パンパンに詰まった麻袋が二つ。これは、シュヴァルツ様と私でイノシシの処理をしている間に、ゼラルドさんが独りで泉まで戻って回収してきた栗だ。
シュヴァルツ様に勝手な行動を取るなとお小言をもらって殊勝に頭を下げていたゼラルドさんだけど、多分、反省していない。……老執事のこういうところは、私には絶対真似できないと思う。
「ミシェルも疲れただろう。眠っていていいぞ」
遠慮なく眠りこける補佐官と庭師を前に、シュヴァルツ様が声を掛けてくる。
「私は大丈夫ですよ。シュヴァルツ様こそお休みになってください」
笑顔を向けると、「俺も眠くない」と返ってくる。
シュヴァルツ様はとても寝付きが良い(寝起きはとことん悪い)人だけど……。多分、馬車を操縦しているゼラルドさんが休めないから、自分も起きているのだろう。うちのご主人様は、そんな人。
そして私も、ご主人様を差し置いて眠ることが出来ない性格です。
「では、少しお喋りに付き合ってください」
「ああ」
夕暮れの帰り道、私達は他愛もない話題で穏やかな時間を過ごした。
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