第135話 山へ(8)
……シュヴァルツ様、伝説は情報操作でも暗喩でもななく、ただの
ミツヅノヨロイオオキバイノシシ(長い)は、鼻息で落ち葉を舞い上がらせながら、アレックスを睨みつけている。
「あ、……う……っ」
少女の口から恐怖で勝手に漏れる呻きは、意味を成さない。
ピリピリと張り詰めた空気から、獣が初対面からご立腹な様子が伝わってくる。
巨大イノシシは視線を人間の子供に固定したまま、頭を下げ、蹄のある前脚で地面を掻いた。それから上体をぐっと縮め……、放たれた矢のようにまっすぐアレックスへと突進した!
凶獣の重量は少女の十倍はあるだろう。ぶつかればきっと馬車に轢かれた並の衝撃だ。
しかし、アレックスは目を見開いたまま固まっている。
……この時の私は、自分を褒めてあげていいと思う。
普段は鈍いと評判の私だけど、今日――この瞬間だけ――は違った。
イノシシの脚が地面を蹴る寸前、私は掌ほどの石を拾い上げていた。そして、走り出した獣に投げつけたのだ。
勢いはないけど尖った石は、運良くイノシシの右瞼に命中した。
凶獣にとって蚊に刺されたほどのダメージもないだろうその攻撃は、その動物の気分を害するには十分だった。
イノシシは眉間の角がアレックスの胴に届く寸前に脚を止め、ぐるんと私を振り返った。憤怒に燃えるつぶらな瞳が私を捉える。
「アレックス、逃げて!」
叫ぶと同時に、私は彼女から遠ざかる方向へ駆け出した。
私は先輩で年上なんだから、年少者を護る義務がある。それに、アレックスの方が私より山に慣れているから、私が時間を稼いでいる間に、シュヴァルツ様達を呼びに行ってもらえる。それまでなんとかイノシシを引きつけないと。
背後からは猛烈な勢いで獣の息遣いが迫ってくる。
……あの角と牙、刺さったらどっちが痛いかな?
なんてくだらないことを考えていると足がもつれた。受け身を取ることも出来ず、私はべしゃっと落ち葉の絨毯に突っ伏した。
起き上がろうとした背中にドスンと鉛が落とされ、一瞬息が止まる。硬く冷たい感覚、これは……猪の蹄だ。
……もう、ダメかも。
私を食べる気かな? とか、イノシシって肉食だっけ? とか、そもそミツヅノヨロイオオキバイノシシって普通のイノシシと同じ生態系なの? とか、どこか他人事な現実味の薄い感情が頭をぐるぐるする。
走馬灯って、もっと幸せな思い出が回ってくれるものじゃないのかしら。
でも……どうせ最後なら、思い出よりも直接顔が見たいな。
――私の暗鬱だった人生に、灯をともしてくれた人。
顔を覗き込むように、凶獣の長い鼻先が私の頬に押しつけられる。三日月のような牙が怪しく光り、ノコギリ状の歯がびっしり並んだ顎が開かれた。
「シュヴァ……」
私が惨劇を覚悟した……瞬間。
黒い
風は凶獣の胴体にぶつかると、その巨躯をなぎ倒した!
どうと地面に転がるオオイノシシ。
「あ……」
安堵と同時に力が抜けて……涙腺が緩んでしまう。
「無事か? ミシェル」
差し出された大きな手に、私は震える掌を重ねる。
――これが、この人たる所以だ。
危機の時は、必ず駆けつけてくれる。
木漏れ日に煌めく黒髪を、畏敬の念を込めて見上げる。
我が国の誇り、そして私のご主人様。
救国の英雄、シュヴァルツ・ガスターギュ将軍。
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