10.レイチェル・リン
朝食を頂き終わる頃には、
夏の始まりを予感させるような、強い光。開かれた窓にはやはり薄手のカーテンが掛けられていて、穏やかな風によって揺らされている。
お屋敷に来客があったのは、わたしとリアム様が応接室で紅茶を頂いている時だった。
呼び鈴が鳴ったと思えば、ほとんど間を置かずして部屋の扉が大きく開かれる。魔力を帯びた風がわたしの髪をそっと揺らした。
そこに立っていたのは、白衣を着た女性だった。
黒髪を大きな三つ編みにして、両肩からひとつずつ垂らしている。眼鏡の奥に見える瞳は柔らかなオレンジ色で、口元は楽しそうに綻んでいた。
「お帰り、フェルザーくん」
「師長にわざわざ来て貰ってすまないな」
「陛下の勅命だ、気にする事はないよ。私としても彼女の呪術を見てみたかったからねぇ」
その女性はわたしへと真っ直ぐに歩みを進めてくる。わたしは席から立ち上がり、ドレスを摘まんで膝を折った。
「お初にお目にかかります。シェリルと申します」
「ご丁寧にありがとう。私はレイチェル・リン。魔術師団の長をしていてね、君に掛けられた呪術を解く手伝いをしに来たんだ」
「ありがとうございます、魔術師長様」
「そんな堅苦しく呼ばないで、軽くレイチェルって呼んでくれていいよ」
悪戯に片目を閉じたレイチェル様はわたしの肩に手を添えて、ソファーに座るよう促してくる。
されるままに腰を下ろすと、レイチェル様は片手をわたしの頭上に翳し、何やら詠唱を始めた。わたしには分からない言葉だけど、心地の良い響き。きらきらと輝く光の粒がわたしにあたっては弾けて消える。
見ればレイチェル様の瞳が色を濃くして光を帯びているようだ。前髪のかかる額にも縦に二列、六個の同じ光がある。小さな宝石のようにも見えるそれは、瞳と同じオレンジ色に輝いていた。
「ふぅん……これはこれは。さすがは希代の呪術師であるピアニー・フィルネス・ルダ=レンツィオの呪いだねぇ」
「解けそうか?」
わたしの向かい側にあるソファーから、リアム様が声を掛ける。
レイチェル様は屈めていた体を真っ直ぐに戻すと、困ったように笑いながら首を横に振った。
「すぐには無理だね。少しずつ段階を踏んでいかなければならないようだ」
すぐには、とレイチェル様はおっしゃった。段階を踏めば、この呪いは解ける……?
期待に胸が弾んでしまうのも仕方ないだろう。この呪いはわたしが死ぬまで、この身を
「解けるとわかっただけでもいい。で、段階とは?」
リアム様もどこか表情を和らげているように見える。
レイチェル様がわたしの隣に腰を下ろすと、控えていたイルゼさんがレイチェル様の前に紅茶を用意する。わたしとリアム様のカップも新しいものに変え、また壁際へと戻っていった。
湯気と一緒に檸檬の香りが立つのは、カップに薄切りの檸檬が沈んでいるからかもしれない。
「シェリルちゃんに掛けられているのは『太陽に宿る神に厭われる呪い』なんだけど、これは一つの印なんだ」
「印……?」
思わず声を漏らしてしまうと、レイチェル様はわたしの方へ目を向けて小さく頷いた。カップを手にして紅茶を一口飲み、またレイチェル様は口を開いた。
「罰を与えるべき罪人だという印。太陽に宿る神はその印に従って、罪人の身を焼き焦がす罰を与えている。この印を神の裁きもなく与える事、それ自体が神への冒涜に当たるんだけど……まぁそれは置いておくとして」
カップを静かにソーサーに戻したレイチェル様は、片手を胸の前で開いて見せる。
その白い手の平の上には、紋章のような不思議な物体が映し出されて、くるりくるりとゆっくり回っていた。
「これは模擬印。これを使って説明するよ。
印を外すのは実はそう難しいものじゃないんだ。この印は誤りであり、シェリルちゃんは罪人ではないと神に訴える。その術は私の方で出来るから任せてくれていい。厄介なのが……この印を守る防御の陣なんだ」
レイチェル様の手に浮かぶ模擬印に、黒い何かが無数に絡まっていく。紐というよりももっと細い、それは糸以外に言いようがない。
しっかりと模擬印に絡み付いた糸は、その姿を全て覆い隠してしまった。
「焼き切る事は?」
「無理だね、強度が高すぎる。少しずつ解いていくしかないんだ。中々面倒で手間の掛かる事をあの王女もしたものだねぇ」
リアム様の問いにレイチェル様は溜息をついて肩を竦めた。
わたしに付けられた罪人の印。それを外せないようにする為に、ピアニー様はここまでしたのか。それだけ、わたしを痛め付けたかったのか。
『ロズ』
ピアニー様の甘い声が耳に残っている。
ぞわりと背筋が震える感覚に、体の芯が凍ってしまったかのように震えが走る。
暖かさを求めてカップに手を伸ばしたわたしは、行儀が良くないと分かっていながら、カップを両方の手で包み込んだ。
「これが糸っていうのがまた厄介でね。紐くらいに太いなら解きようがあるんだけど……このしっかりとした無数の結び目を、まずは緩めないといけない。そこで──フェルザーくん、君の出番だよ」
「俺の?」
「そう。正確には無駄に溢れさせている君の魔力の出番だ」
「無駄って言うな」
「幸いにも君とシェリルちゃんの魔力は相性が良さそうだし、君以上の適任はいないと思うよ」
戸惑いも隠せずにレイチェル様に視線を向けるも、彼女は大きく頷くばかり。
魔力の相性? リアム様が適任?
問いたい事は沢山あるけれど、何よりもそんな事をリアム様にさせてしまっていいのだろうか。
保護して頂いて、お屋敷に置いて貰って、これ以上を望むだなんて出来るわけがない。
困ったわたしがリアム様に視線を向けると目が合った。困惑するような顔をしているリアム様だったけれど、わたしと視線が重なると少し笑うだけだった。
まるでわたしの心を読んだように、「問題ない」と小さく告げて。
「それで? 俺は何をすればいい?」
「色々方法はあるんだけど……一番刺激の少ないものから始めようか。たぶん効果はないけれど」
「効果がないと分かっているものをするのか?」
「だって効果絶大なものは拒否されそうだから」
「お前は俺に何をさせるつもりなんだ」
リアム様は怪訝そうにその表情を歪めるけれど、レイチェル様は気にした様子もない。からからと明るく笑いながら、リアム様を手招いている。
「解呪の式を教えるからこっちにおいで。シェリルちゃんは気持ちを落ち着かせておいてね」
近付いてきたリアム様の前に、レイチェル様が文字を浮かび上がらせている。きっとあれが呪いを解する為の式というものなのだろう。
それを理解出来るほど呪術に明るくないわたしは、少し冷めてしまった紅茶を一口頂いた。ふわりと香る檸檬、それから優しい甘さ。
先程まで感じていた寒さは、いつの間にか消えて無くなっていた。
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