第86話 偵察

 取材を許可すると、早速、月曜の午前中にインタビュアーがカメラマンを連れて静実学園高校へ来る事になった。今流行り始めているものを、旬のうちに捉えようと言う事なのだろう。

 透が森と打ち合わせしてから、少し遅めに幼稚園の方へ出勤しすると、いつものように玲奈がまとわりついてきた。

「玲奈ちゃん、おはよう」

玲奈は初めて透にきちんと名前を呼ばれ、驚いて目をまん丸くした。


 レイラはアントンに調べてもらい、園児たちが10時までなら園庭で遊んでいると聞き、度無しの眼鏡をかけ、きちんとした保護者のように見えるスーツの上に黒いロングコートで学園の正門から入った。さり気なく学校へ行くふりをしながら、幼稚園の前を通り、足を止め、柵越しに園庭をうかがう。


「玲奈ちゃん、また木に登ったのかい? 自分で降りられるかな?」

レイラは一瞬、自分が呼ばれたのかと思って、返事をしそうになった。しかし、透が自分を「ちゃん」付けで呼んだ事など一度もない。

 声のした方を見ると、透がジーンズに薄めのダウンジャケットを着て、木の上を見上げている。自分に向ける笑顔とはまた違う、慈しみに溢れた笑顔だ。

 子供が生まれたら、毎日、今、透が今見せている、あの笑顔も見ることが出来るのだと、レイラの気分は早くも未来へ飛んでしまい、幸せな気持ちになった。


 レイラがふと視線を感じて目を向けると、どこかで見たような気がする女性が園庭からレイラを見つめていた。昨日、お見合いに来ていた女性だと気づいた。女性はペコリと頭を下げると、透の方へ行き、レイラの方を指さす。透は頷くと、手を伸ばして玲奈が怪我をしない高さの枝まで降ろしてから、レイラのいる柵の方へ向かった。


「どんな事をしているのか、見にきちゃった」

「今、園で匠たちのMVが噂になっていなければ、見学者だと言って見学させてあげられるんだけど。とにかく、レイラは、今は素性を明かさない方がいい。女王なんだから、まだ夫になってもいない人物と、あんなシーンが出ては不味いんじゃないかな。日本にいる間、記者達に追い回され続けると大変だ。それから、すぐにでもキーロヴィチに新しいバージョンを削除するように言っておいて」

「そうだね……。あのシーン気に入っているんだけど、仕方ない。式を挙げればゴシップではなくなるのにね。わかった。早く公表してしまいたいな。そうすれば、気にしなくて済むのに」


 玲奈が後ろからひょっこり顔を出した。

「あ、YouTubeに出ていた人だ〜!」

「玲奈ちゃん、静かに……」

それを聞いた子供たちがわらわらと集まってきた。母たちがMVを見ているので、子供たちも知っているのだ。

「え? でもこの人、眼鏡かけてるよ?」

「眼鏡かけてたって、玲奈にはわかるもん!」

「ホントだ〜! 綺麗だね。髪の毛本物?」

「透先生がチューしていた人だ〜!」

透が赤くなる。子供たちが寄って来た為、先生たちも集まってきてしまった。


「透先生、彼女もしかして、噂のあのMVでお相手をつとめた人ですか?」

「有名な女優さんですか?」

「昨日、オンラインの記事にサファノバと言う国の女王様だって載っていましたけど、本当ですか?」

選抜があるとはいえ、エスカレーター式に上の学校へ上がることの出来る、この園に来る子の両親は大抵身なりが良い。園の先生達はお迎えに来る両親達を毎日見ている為、目が肥えている。レイラの身に纏っている物が仕立ての良い物である事はすぐに見抜いたようだった。そんな先生達に聞かれ、透は仕方なく答えた。

「記者たちが勘違いしたのか、興味を持たせるようにフェイクニュースを載せたのでしょう。監督から彼女はロシアの女優だと聞いています」

レイラは、透から身分を隠すように言われていたのを思い出し、透の筋書きに沿うようにカタコトの発音で、コンニチハ、と挨拶した。

「彼女は撮影で東京に来ているようで、後で東京観光に連れて行くよう、スタッフから頼まれているものですから」

透はわざとゆっくり、言葉を切って、スマホを持つ仕草をして見せ、レイラに話しかけた。

「あとで、電話、する」


 レイラはめざとく、透の左手の薬指に指輪がはまっているのを見つけた。レイラの視線が、指輪を見詰めている事に気がついた透は、もう一度ゆっくりと、後で、と伝え、手を振って、園庭の遊具の方へ戻って行った。園児たちも先生たちもつられて、遊具や砂場へ戻った。

 

 果穂が一人残った。人がいなくなったのを見て、レイラに話しかける。昨日は、透に話しかけたり、見つめただけで、この女性の視線で殺されるのではないかと思ったが、今日は昨日と違って、話しかけやすい雰囲気を纏っている。

「あの指輪は園長先生が、トラブルに巻き込まれないようにつけて下さい、とお願いしたので、つけているようですよ。女性よけと言う意味ですが」

「理由を教えてくれて有難う。昨日は大変失礼した」

「本当は女優ではないんですよね? どこの国の方ですか?」

果穂は本人が女王だと言えば、納得するしか無いと思った。どう見ても、普通の人ではない。だが、聞きたくなかった。あまりにも自分とは、かけ離れすぎている。

「東欧の方」

「本当にお綺麗ですね。なんて言ったらいいのか分からないくらい……。透先生が惹かれるのもよくわかります。透先生の一目惚れですか?」

「そうだと言いたいところだけれど、透とは高校からの付き合いで……。昔から、透はいつも素っ気ない。今だってさっさと戻って行ってしまったし。仕事中に来た私も悪いが」

「日本人はそんなに人前で態度に出しませんからね。本当に透先生が好きなんですね。さっきから、ずっと目で追っていますよね」

 レイラが果穂と話している風を装って、透を見ている事は、果穂にはわかっていた。


「透先生と別れる気はありませんか?」

果穂は自分で言って、ギョッとした。なんでこんな事を口走ったのか、自分でも分からなかった。

「ない。正式な発表はまだだが、昨日透と婚約した。透の母君にも伝えた」

レイラは透から視線を外し、果穂を気の毒そうに見つめた。高校の頃は、透に熱を上げている女子を片っ端から落として、透から遠ざけていたが、今は遠ざけられてしまった痛みが分かる為、果穂の気持ちが分かる。けれど、分かる事と別れる事は別の話だ。

「透だけは譲れない。高校の時から、ずっと想っていた。色々あったが、やっと婚約する事が出来た。透は当分の間、理事長をやめるつもりはないようだ。私はそれでも良いと思っている」

果穂はレイラの貫くような想いが、よく分かった。自分はそんな風に誰かを想い続けた事はまだ無い。透にはまだ、憧れているだけだ。

「……そんなに強く人を想う事が出来るなんて、羨ましいです」

「想いが強ければ強い程、苦しい事は多い。でも、嬉しい事も多い。世界が色鮮やかに見えてくる」

透が果穂を呼びに戻ってきた。

「中沢先生、笹原先生が呼んでいましたよ」

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