第82話 お見合い
学校から帰宅した透宛に、菊からのメモが置いてあった。
ザ・リッツカールトン東京の、ロビーラウンジに明日の15時30分に来る様にと書いてあった。菊は、透がこれからどうするのかを、ずっと家族と話す事を避けている本人から聞きたいのだろう。透は気が重かったが、明日は日曜で幼稚園も休みの為、断る口実がなかった。断ろうにも、菊はスマホも携帯も嫌っていて、持っていない。
翌日5分前に45階のロビーラウンジに着くと、最近では珍しく、にこやかな顔をした菊が待っていた。高い天井、落ち着いた色合いの家具。今日の様な晴天だと、45階からは遠くまでよく見渡せる。
「同級生だった千代さんが一緒にお茶でも、と言うから……」
「母さんと千代さん二人で、アフタヌーンティーをすればいいじゃないですか。何も私がお付き合いしなくても……」
「あら、みえたわ。千代さんの娘さんも一緒だから、透を呼んだのよ」
「聞いていませんよ。お見合いならお断りしたはずです。帰ります」
菊は透が逃げないように、ジャケットの裾をしっかり掴んでいる。
「もう、見えているんだから、諦めなさい。千代さんは大事な友達だから、失礼の無いようにお願いね」
透は、千代とは面識があったが、その娘とは面識が無かった。会った途端、千代の娘と透は、あ、と同時に声を上げた。
「なに? 知り合いなの? では、もうご存知かとは思いますが、息子の透です。静実学園の理事長をしております」
透は軽く頭を下げた。相手はここの所、毎日顔を合わせている幼稚園で、先生をしている中沢だった。
「透先生、理事長だったんですか? てっきり、バイトだと……」
千代が娘を嗜める。
「何を失礼な事を言っているの。ごめんなさいね、透さん。娘の果穂です。お互い、顔見知りのようですが、果穂は静実学園の幼稚園で先生をしています」
「あら、幼稚園で先生をしていらっしゃったのね。それならば話は早いわ。私たちが一緒だと、お邪魔かもしれないわね」
そう言うと、菊たちはウェイターに離れた席を用意してもらうよう依頼して、子供たちが座ったのを確認すると、さっさと離れて行った。透はいつも菊が「千代さん」と呼んでいたので、千代の苗字が「中沢」だと初めて知った。
「透先生、既婚者じゃ無かったんですね。何で左手の薬指に指輪をしていたんですか?」
今日は指輪をしていない透を見て、果穂が嬉しそうに聞いた。
「園長からそうするようにと、アドバイスをされたものですから」
「園長先生がアドバイスをするのもわかります」
菊と千代が時折、離れた場所から二人をチラチラと見ている。
「中沢先生、」
「果穂と呼んでください」
「では、果穂さん、申し訳ないのですが、私は全く今日の事は聞いていなくて……。今はお見合いをするつもりは無いんです」
「構いません。私も乗り気では無かったのですが、相手が透先生で良かったです。私は子供相手だと人見知りしないのですが、大人相手だと、人見知りが酷くて、気が重かったんです。母たちはお見合いさせていると思っているようですが、今はそう思って頂かなくても構いません」
果穂は子供たち一人一人に対して、どこまで手伝って、どこまで自分でやらせるかの加減がよくわかっている先生だった。ルーティーンワークもおざなりにせず、改善出来るところは改善して、効率的に出来る所と、手をかけなければいけない所をよく心得ていた。
透は子供だけではなく、先生たちの様子もよく見ていたので、果穂の仕事の仕方を密かに評価していた。二人の話題は自ずと幼稚園の話になる。そうなると、透は先程までの様子とは打って変わり、熱心に見直した方が良い点などを確認したり、話し合ったりし始めた。それだけではなく、子供たちの様子や性格など話題には事欠かない。
玲奈の話が出た時に、ふと、果穂は思い出した。
「透先生が、バイトでは無く俳優志望でも無いとすると、あの曲のMVに出ていた相手はどなたですか?」
途端に透は口を閉ざして、紅茶を飲もうとカップを手に持った。
すると、後ろから透のカップを取りあげ、テーブルに戻す手があった。カップを置いた見覚えのある細くて長い指。横からその指が透の顎にかかり、上向かせる。透の顔にプラチナブロンドの髪がかかる。
「透、この間の事は、許して欲しい……逢いたかった……」
レイラが、そっと長めのキスをした。その後、椅子の後ろから大事な壊れ物を扱うように優しく、透の肩に腕を回す。まるで、誰にも渡さないと言っている様だった。透の顔が青ざめた後、ほんのり赤くなった。
果穂は驚きすぎて、声も出せずにいた。お見合いの最中に、見知らぬ女性が自分のお見合い相手に、キスをするなんて思いもよらなかった。一目でMVの中で透の腕の中に飛びこみ、別のシーンでキスをされた女性だとわかった。MVで見たよりも遥かに美しく、果穂から見ても魅惑的で、目を惹きつけ離せない。目の前の女性は、気軽に声をかけられない威厳と優雅さを持っている。但し、MVと違い、かなり痩せて見えた。
果穂はお見合いのつもりでなくて構わないと、言ってしまったが、本当はゆっくり時間をかければ、透は自分の方を向いてくれるのではないかと、少し期待していた。透の手が無意識にレイラの腕を辿り、撫でるように指を探り当て、自然と繋ぎあった。その様子を見て、果穂の思いは打ち砕かれた。
「あのMVに出ていたのは私だ」
レイラが果穂に向けて静かに言った。キスをしている所も、手を回している所も、どれをどこでとって静止画にしても、この二人は絵になる。上手な俳優が、演技をしているのではないかと錯覚してしまいそうになる。MVの映像は演技ではなかった事が、果穂にははっきり判った。見た目だけではなく、果穂はこの二人が一緒にいるのは自然なことのように思えた。
「どうして、ここに?」
透の声が掠れた。いつも幼稚園で見る透は、元気で明るいのに、この女性が現れてから、まるで別人のように、苦しく切なそうに見えた。
「匠が教えてくれた。悪いが、透は連れて行く」
有無を言わさぬ口調に、果穂は頷くより他無かった。透はハッとしたように手を離した。
「果穂さんに失礼じゃないか? 何の用……」
レイラを見上げながら言いかけて、透は言葉を失った。レイラは元々ほっそりしていたのだが、痛々しい程に、痩せてしまっている。
「大事な話がある。53階で待っている……お願い、来て」
レイラは囁くように言うと、透に部屋のキーを押し付け、ラウンジを出て行った。
透の耳に、周りの人たちの囁く声が耳に入ってきた。「オンラインニュースに載っていた」「サファノバ」「女王」「天皇を表敬訪問」と言う言葉。果穂は唖然としていて、周りの声がまだ耳に入っていないようだった。
果穂は気乗りしなかったお見合いの相手が透で嬉しかったが、この二人の間に入る事など到底出来ないと気付いてしまった為、慌てて言った。
「あ、あの、構わず行って下さい。その代わり、一つ聞いていいですか。お見合いを受けない理由は、今の方ですよね?」
透は微かに頷いた。このまま、途中で退席する事も気にかかったが、レイラの只事ではない、やつれた様子が気になった。
「途中で退席する事になってしまい、すみません。こんな事を頼むのは申し訳ないのですが、千代さんにも非礼を詫びておいて下さい」
透は伝票と荷物を持つと、ゆっくりとラウンジを出て行った。果穂たちの様子を伺っていた千代は今のやりとりを唖然と、菊は真っ青になって見ていた。果穂は、透がラウンジから去った後、初めて周りの人々が、透とレイラのいた場所を見て、ひそひそと話している事に気がついた。
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