第65話 透の過去

 透は空港からロンドンに電話をかけた。

「ハンナ、久しぶり。予定が早まってしまって……。今日尋ねても構わない? うん、有難う。会えるのを楽しみにしているよ」


 かけ終わってから、透は重い溜息をついた。今日が何日なのかも失念している。

 透はこんな事でもなければ、こんな時期にハンナには会おうと思わなかっただろう。透としては、久しぶりにハンナに会えるのは嬉しい。だが、会う前に必ず思い出す。虐めから喧嘩に明け暮れていた米国での中学時代の事を。初めて友達になってくれたハンナ。今はロンドンの大学で研究者として働いている。

 透は日本でいえば中1から中3までをアメリカで過ごした。日本で勉強してから行ったとはいえ、最初はなかなか英語が通じず、苦労した。学校に行き、よくわからない授業を受け、クラスメイトたちの早口の言葉も聞き取れず、孤立していた。問題文を理解するのに時間がかかり、宿題を解くにも毎晩、夜遅くまでかかった。

 半年くらい経ち、やっとなんとか話ができる様になり、話も聞き取れ、友達もでき始めた頃に、突然、透の身体に異変が訪れた。下半身から出血があった。最初はストレスからきている症状だと思っていた。ところが、だんだん体つきが丸みを帯び始めた。体格のいいクラスの同い年の男子たちの中には、髭が生え始めている子や声変わりをしている子もいた。変化に気づいたクラスの男子から、透は揶揄われ、それが次第にいじめへとエスカレートしていった。


 勉強のために、一緒に渡米していた菊が病院へ連れて行き、検査をすると透はインターセックス(卵精巣性性分化疾患)だと分かった。出血の原因は体内に、精巣の代わりに卵巣があった為、つまり生理の出血だった。検査をした病院は、インターセックスについて理解がなく、何もしてくれなかった。

 おかげで、日を追うごとに透の身体が女性化し、「男女」と蔑まれ、ますます暴力的ないじめが激しくなった。体格の良い男子生徒に強姦されかけた事もあった。それが、トラウマになった。透は日本で父と一緒に合気道をやっていた事もあり、暴力にはできる限りの力で抵抗した。その為、体は毎日の喧嘩で傷だらけになった。喧嘩は実戦を積めば積むほど、強くなった。しかし、心ない言葉に心はボロボロになっていった。そして何より、透は男でも無く女でもなく一体、自分は何だろうと、自分の体を呪った。死にたくは無かったが、毎日生きていく事が地獄だった。


 その頃、ハンナと言う日本でいえば高一の女の子が、透が袋叩きにされているところを見かけ、先生を呼んで止めてくれた。彼女は周りの子たちが言っていた「男女」と言う囃子言葉を聞いていた。


 ハンナは成績優秀、チアリーダーであった為、学校中から一目置かれていた。そんなハンナが常に透に付き添ってくれたおかげで、透へのいじめは減っていった。ある日ハンナは、虐めていた子たちが言っていた事は本当なのかと透に問い質した。そして、自分も同じだと告白した。

 ハンナもインターセックスだったのだ。透と反対の、外形と心は女性、卵巣がなく精巣があるのだと言う。ハンナが紹介してくれた病院は、インターセックスに対して理解がある所で、透はホルモン治療を開始した。おかげで、透の女性化は止まり、だんだん男性らしい体格になって来た。ハンナに出会わなかったら、透の今は随分と違ったものになっていただろう。ホルモン注射のおかげで、透は心身ともに自分を取り戻し始めた。それに比例して、いじめの方も無くなってきた。この事を知っているのは母だけであり、姉夫婦は知らない。母が姉夫婦に遠慮して、一緒に暮らしていなかったのだ。


 透の留学中、ハンナは透に気持ちを寄せ過ぎて、透は拠り所を求めて、透が帰国するまで二人の付き合いは続いた。ハンナが病院を紹介してくれた為、菊はハンナを知っており、たまに透が帰って来ない事もあった為、菊も二人が付き合っている事に気付いてはいた。ハンナに病院を紹介してもらうまで、透は身も心もボロボロになり荒れ果てていた。怪我だらけの身体で帰宅した透は、菊に問いただされても何も答えなかった。家族にも心を閉ざしていた。毎日ぼろ雑巾のようになりながら学校に通い、ただ、生きているだけだった。ハンナがいなければ、透は立ち直れていなかった事を知っている為、菊はそのまま二人を放っておいた。

 二人は誰にも言えずにいた秘密を共有する事で親密になった。今思えば、二人は戦友の様な関係であったのだと透は思う。

 ハンナは、透と言う自分と似た様な人間を見つけた事で、世界の中でこんな体を持っているのは自分はたった一人ではない、と感じる事が出来た。守るべき者を持つ事で、自分の存在を肯定的に捉える事が出来た。透にとって、ハンナは周りから一時的に避難するためのシエルターのような存在だった。距離が離れたことによって二人の関係は自然消滅したが、今も連絡しあう良き友人となっている。

 それ以来、透が用事でイギリスに行く時以外は、会う事は殆どなかったが、たまにメールでやりとりはしていた。ハンナは新しい情報を提供してくれる。透は度々、今頃ハンナはどう言う生き方をしているのだろうと思いを馳せた。透にとってハンナは今でもメンターなのだ。

 

 行動しないレイラに業を煮やし、匠は菊に電話をかけた。透のロンドンの知り合いが誰で、どこに住んでいるのか知っていたら教えて欲しいと。匠はロンドンまで透を追いかけて、連れ戻すつもりでいた。連れ戻せなくても、話をしたかった。自分にはどうしようもできない事かもしれない。大人二人の問題であり、自分が余計な口を出すべきでは無いのかもしれない。それでも、自分にとって大事な二人に、また元のように戻って欲しかった。


 匠からの慌てた様な国際電話に驚きつつも、菊は答えた。多分、米国にいた時の「彼女」で、今は学者になっているハンナを尋ねるのであろうと。住所はわからないが、と前置きし、所属している大学名とフルネームを教えた。菊は故意に、ハンナがどう言う人物であるかを言わなかった。ハンナは今ではインターセックスの研究の第一人者だと伝えなかった。

 菊はアデリーヌが、夫の実らなかった恋の相手だったとは言え、生涯忘れられない人であった事に気づいてから、無性に哀しかった。レイラが現れるまでは、それに気づかずにいたのだ。気がつかない方が良かったと、レイラを恨めしく思った。自分がどんなに、大切にされていたとわかってはいても、彼女を思い出すたびに苦しくなった。夫の心の奥底にはいつも、アデリーヌがいたのだと思った。菊はアデリーヌの娘に恋をしてしまった息子を、応援する気持ちにはなれなかった。そして追い討ちをかけるように、可愛がっていた孫は、アデリーヌの孫なのだ。


 匠は、なぜ今この時期に、透が中学時代の元彼女のところへ行くのか、その気持ちがわからなかった。

(中学の時の彼女? 透はそのハンナという人を友人と言っていなかった? しかも、元から、サファノバの後に、尋ねる予定を立てていた様子だった。ヨーロッパに来たついでなのだろうか。それにしては、まるで、うまくいかなかい事を見越した様に、予定を立てているとは、どう言う事だろう)

昼食を一緒に取れると言うので、匠はレイラにお願いをした。


「透ちゃんを探しにロンドンに行きたいんだけど」

「……探して、どうするの?」

「お母さんは、もう透ちゃんの事は諦めたの?」

「少し、時間が欲しい」

「そんな悠長な事を言っていていいのかな? 透ちゃんはアメリカ留学時代の、元彼女ハンナさんに会いにロンドンに行ったみたいなのに。中学生の時のみたいだけどね」

レイラの息が止まる。そんな話は聞いたことが無かった。

「とにかく、俺はロンドンに行くよ。連れ戻したければ、連絡して。連絡がなければ、俺は透ちゃんとそのまま日本に帰るから」

(透は私を失いたくなかった、と言った。今度は私が透を失う番なのだろうか。透が言った事は、嘘だったのだろうか。透は私が駄目なら、すぐに次へといってしまう様な人間なのだろうか。それとも、壊れそうな透を支えてくれる人物がいるのだろうか)

匠は衝撃を受けているレイラを見て、早まらない様に声をかけた。

「ハンナさんはさっき調べたら、インターなんとかの研究の第一人者だって。透ちゃんは、何かその人に聞きたいことがあるのかもね」

匠はレイラを前にして「インターセックス」と言葉に出せなかった。それが何を意味するのかも、気恥ずかしくて調べていない。


 レイラには匠の言った「インターなんとか」がインターセックスだとわかった。透は自分の身体についての世界的第一人者でもあり、元彼女でもあると言う人物に会いに行く。これが何を意味するのか……。人は自分の理解者を求めるものでは無いだろうか……。その女性は透がレイラに会う前から、透の特性を知って研究者になったのだろうか。レイラはすぐに、調べた。

 ハンナ本人もインターセックスだと出て来た。中学時代からのお互いをよく知る理解者であり、透の相似形であるハンナ……。傷ついた透を慰めるのだろうか……。透はやはり、透を理解出来ない自分より、理解してくれる人物に癒してもらいに行くのだろうか。レイラは今ここが何処で、自分が何をしていたのか忘れる程、取り乱した。


「お母さん、お昼を食べたら俺は行くよ。これで、さようならになるかもしれない。会えて嬉しかった。本当はお母さんを支えてあげたかったけれど、育ててくれた透ちゃんが、心配なんだ」

レイラは匠の声で現実に引き戻され、冷静になった。

「ロンドンで……その人に会えるまで、アントンを一緒に行かせよう。匠に何かあったら、困る。アントンは英語を話せないが、大人だから、一緒にいるだけで、ある程度の危険を回避できるだろう」

匠は頷いて部屋から出て行った。

 レイラは途端に食欲が無くなってしまった。また、誰もいなくなってしまう。優しく人のことを考えて行動する匠と、どうしようも無いほど焦がれていた透と過ごす未来が消えてしまう。

(また、暗闇の中に逆戻りだ……)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る