第64話 母の弱さ

 匠は透を見送る事も出来なかった。透がいた部屋へ駆け込んでいった時には、既に部屋は空っぽだったからだ。テーブルの上に小さい箱が置いてあり、透の字で「レイラへ、心より 幸せを祈って」と書かれたポストイットが貼ってあった。慌てて、レイラのいる部屋へ駆け戻り、ノックもせずに扉を開ける。

「お母さん! 行ってしまったよ……。まだ追いかければ間に合うよ! それから、これが残されていた」

匠が差し出した物を受け取っても、レイラはぼんやりしている。匠は部屋の中にいた者たちに、部屋から出てもらう様お願いした。


「お母さんはどうしたいの?」

「私?……」

「透ちゃんを諦めて、他の人と結婚するの? お母さんは、本当に透ちゃんの事が好きだったんじゃなかったの? 子供が出来ないくらいで諦めてしまえる程度だったの?」

匠はレイラの肩を思わず揺さぶった。

「……匠……。痛い」

 レイラが呟いた為、ハッとして匠は手を放した。レイラが泣いていた。美しく強いと思っていたレイラが、静かに涙を零している。匠の美しいヒーローは今、小さく、か弱く見えた。

「ごめんなさい……痛かった?」

レイラが首を横に振る。

「私は何よりも家臣たちの望みを叶えなければならない。それは自分より国の事を考えなくてはならないと言う事……」

華奢な母の肩に乗った国の重さに、匠は愕然とした。

「なら、俺がこの国について勉強して、すぐに後を継ぐから……。そうすればお母さんは自由になれるよ……」

「匠……」


 レイラは改めて匠を見た。まだ中学生だ。自分が王位を継ぐ決意をした時よりも、さらに若い。優しすぎるきらいはあるが、きっといい王になるだろう。だからこそ、もう少し、自由にさせてあげたい。匠に対する透の気持ちはよく分かった。

結局、国と透のどちらを選ぶか二択になった時、レイラは国を選ぶのだ。そのように育てられてきた。引かれたレールの上を歩く以外の道は無い。

「お母さんは、後継者のために好きでもない人と結婚して、この先ずっと暮らしていくの? 後継者さえできれば良いの? 新しいお父さんと暮らす事になるくらいなら、俺も日本に帰る。新しい人との子供を王位継承者にすればいいよ」

「……匠、私も辛い」

「そう、いいんじゃない? この先ずっと自分を哀れんでいれば。自分で選ぶんでしょ?」

「匠、少し、時間を……」

 そう言ってからレイラは、透が何度か今の自分と同じ言葉を口にしていた事を思い出した。透は結果までわかって、ずっと悩んでいたのだ。そして、その間、距離を保とうとしていたのに、自分の想いだけで、構わず距離を詰めてしまった。

 透の話を聞こうとせずに、後継者については大丈夫だと安請け合いしてしまった。レイラは別れる理由を、家臣たちが望む後継者が出来ないせいという事で、透のせいにしてしまえるが、透は自分の生まれ持ったもののせいだとしか考えられないだろう。存在自体を否定してしまう事になる。他ならぬレイラが透のあり方を否定するのだ。より傷つくのはどちらだろう。レイラは自分が透を深く傷つけてしまった事に気がついた。決して、別れたい訳ではない。一緒にいたいのに……。傷つけて遠ざけてしまった。

「お母さんは透ちゃんを、後継者を産む相手としてだけで、選んだの? お互いに好きなんじゃなかったの?! 何で? 酷すぎる!」

匠は出て行ってしまった。


「……違う。私は最初から、透と居たかった。最初は世継ぎが出来れば、母に認めさせる事が出来ると思ったが、叶わなかった。私は匠と透がいればいいと思っていた。けれど、家臣たちは今までの事から、後継者が必要だという……。家臣たちは国民そのもの……。はじめから、ちゃんと調整しておけば良かったのか……」

 レイラの呟きは匠には届かなかった。匠から受け取った箱を無意識に開ける。指輪ではなく、シンプルな雫型のダイヤのピアスが入っていた。透は、結果を予想して指輪では無かったのだろうか……。


 アントンは良くない事だと知りつつも、匠とレイラのいる部屋の扉から話を盗み聞きした。幸せな展開になると予想していたのに、透が出て行ってしまい、レイラがそれを止めない事は、青天の霹靂だった。二人の話が予想外だった事に、驚きつつ、問題は自分たちが後継者を強要している為なのだと知った。透もそれを指摘していた事を思い出した。透はこうなる事を知っていて言ったのだ。それが無ければ、全てはうまく行く。

(だが、国として後継者は必要なのだ。暗殺や事故、病没のせいで、レイラ様と匠君に何かあった場合、この国には王族がいなくなってしまう。せめて、あと一人王位継承者が必要なのだ。でも、その為にまたしても、レイラ様が去年のように死んだ目をして、仕事だけはきちんとこなしている状態になってしまってもいいのだろうか……。大臣たちの一部からしたら、その方が、都合が良いと思う者もいるのかもしれないが、自分たち護衛たちはそうは思わない。今度こそ、昨日までの、お幸せそうな姿が続くと思っていたのに……)

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