第33話 ハンナ
お昼前に森に電話があった。森は大急ぎで理事長室に行き、ドアをノックした。返事を待つのももどかしく、ドアを開ける。在室中と書かれていたにも関わらず、部屋の中はしんとしていた。森がキョロキョロと見回すと、透が応接用の長ソファに横になっているのが目に入った。倒れている可能性も考慮して、慌てて近寄ると、眠っているようだった。
意外と睫毛が長い。透の中性的で端正な横顔に、森は思わず、声をかけることを忘れて見入ってしまった。不意に透が苦しそうに呟いた。
「ハンナ……ダメだ」
見てはいけないものを見てしまったように、なんとなく後ろめたくなり、森はメモだけ残して、理事長室を出た。出た所で、珍しく、匠にばったり出会った。
「匠君、先ほど電話があり、One smile for allが同率で最優秀賞になったよ」
「本当ですか!?」
「ただ、来年から規定が参加者は高校生のみ、に変更されるみたいだけど……。今、築地先生に伝えようと入ったら、眠っていたから、メモだけ置いてきた。
そう言えば、彼女の名前はハンナさん?」
「え? 違いますよ。何でですか?」
「寝言で呟いていたから」
森は不味いことを言ってしまったと思ったが、もう遅かった。
匠は森と違って遠慮が要らない為、透が眠っていると聞いても、さっさと理事長室に入って行った。今まで理事長室で眠っていた事などない透が、ソファに収まるように体を丸めて、眠っている。眠りこんでいる透の顔は、雪のように白く、髪は黒檀の様に黒く、流石に唇は血の様には赤く無かったが、白雪姫(有名アニメのではない)を思わせた。匠は、レイラにとって透は「お姫様」だと、ますます思った。顔だけ見れば、中性的な美しい女性だと言ってもバレないかもしれない。
匠は思わず、写真を撮って、レイラに送った。「透、お昼寝中」と。レイラに、出来たら、透の写真を送って欲しいと頼まれていたのだ。しかし、心なしか顔色が悪い。
透は昨日帰宅した時、和人に肩を借りて、部屋まで戻っていた。とてもではないが、楽しかったデートの帰り、と言う感じでは無かった。途中で具合が悪くなったのか、具合が悪くなる様な事が起こったのか……。
匠が覗き込んでいると、透はうっすらと目を開けた。
「レイラ?」
「寝ぼけてるの? 匠だよ」
透はハッとして起き上がって、誤魔化すように顔をこすった。
「ちょっと具合が悪くて横になったら、ぐっすり眠ってしまったみたいだ……。匠、どうかした?」
「やっぱり、透ちゃんはレイラのお姫様だね。寝顔みていたけど、ガラスの棺に入っていそうだったよ。昨日、具合が悪そうだったから、様子を見にきたんだけど。レイラを送りに行って何かあったの?」
透が何か答えるよりも早く、ノックと同時にドアが開き、メンバーが雪崩れ込んできた。
「森先生に聞きました? 同率最優秀賞だそうです!」
「それは、凄いですね。良い結果になって本当に良かった」
「理事長、昨日ブルーバイユーで、彼女さんになんて言ったんですか?」
波瑠が真っ先に口を開く。透がキョトンとしていた為、匠が説明した。
「昨日、開校記念日だったから、俺とメンバーでディズニーランドに行ったんだよ。で、偶然、ブルーバイユーで二人を見かけて……」
あれをこんな大勢に見られていたとは思いも依らず、透はがっくりうなだれた。
匠が慌てて、メンバーをドアの外に追いやる。
「さっきまで具合が悪くて、横になっていたから……。今日は相当具合が悪いみたいだから、また明日……」
メンバーを追い出した後、
「ごめん。違うところで食べれば良かったんだけど……」
「……。いつから観察していたんだ?」
「観察なんてしてないよ……。偶然見かけただけだよ。ジャングルクルーズで並んでいるところと、レストランに居合わせただけだよ」
透が下を向いたせいで、現れた首がうっすら赤くなっているのが見えた。やっぱり、照れているのだ、と匠は思った。しかし、聞いておかなければならない事は、聞かなければならない。
「ハンナって誰? さっき寝言で言っていたみたいだよ」
透が不意に、立っている匠を見上げた。首筋の赤みがひいている。
「そんなこと言ってたか?」
「レイラは昨日帰ったばかりなのに……。浮気していると、レイラに言っちゃうよ」
「浮気?」
「違うならいいよ。ハンナって誰? 女性の名前だよね?」
透は少し遠くを見るような表情をした。
「恩人の名前だよ。ハンナがいなければ、今私はここにいなかった」
匠はそれ以上聞くことが出来なかった。透の横顔が、質問を拒んでいた。
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