書き置き


 どうも、夢をみていたらしい。金切り声が聞こえる前のころのようだった。

 目の前にだれかいる。

 母だった。


 夢のなかの母は、風船のように何もつまっていなくて、父がやることをマネするだけだった。父はどんな人か、この病院のなかで色々アタマをたたかれたり、けられたりしているので、あんまり忘れてしまった。だが、ロクでもなかった。母は父の仕草をじっと見る。ちゃんと見ておかないと、たたいたり、けられたりするからだ。そうなると「私がしっかりしてなくて、すみません」とあやまるのだが、でも、うまく話せなくて「何が言いたいんだ」となぐられる。

 夢のなかの母は少しだけ、ふくらんだ。


 母は週に5日パートをしている。長時間入れるということで、店長はうれしそうだったが、もちろん、服の下にたくさんキズがあるなんて知らない。どうにも、同じパートの人は気付かれているようだ。「かわいそう」とある人が言う。「かわいそう」とあの人も言う。「かわいそう」「かわいそう」「かわいそう」あの人もあの人もあの人も。家に帰ったら、父が待っている。

「もうナイターがはじまってしまった、ビールがない、お前のせいで負けている、それはお前が悪い、悪いお前はなぐられて当たり前だ」と母が持ってきた缶ビールをとって、それで母の頭をなぐりつける。アルミ缶がへこみ、中身がもれ出る。母の顔にビールがかかる。

 父はひとしきり笑い、その後に真っ赤にして母を引きずり回した、お前のせいでビールがなくなってしまったと。

 夢のなかの母はまた少しだけ、ふくらんだ。


 ある日、父がパチンコのために外に出た。いや、何だってよかった。何であっても、たいして変わらない。母はふるえる手で洗たくものをたたんだり、皿を洗ったり、部屋をソウジする。ステキでキレイになるためだ。部屋の汚れは心の汚れなのだ。いくらキレイにしても、父はものの2日3日でぐしゃぐしゃにしてしまう。

 母はけらけらとひとりで笑った。きっと楽しいのだろう、何が楽しいのだろう? クズされたものをまたつみ上げ、再びクズされることに? あまりにムダだから? そんなムダなことしか選択できない自分にたいして笑っている? 何度でもステキでキレイになることができるから? 母はけらけらとひとりで笑った。

 父がもどってきた。顔は最初から真っ赤だった。パチンコでもお馬さんでも何でもいいが、どうやら負けたらしい。「お前のせいで負けた、お前が悪い、お前が悪い、悪いお前はなぐられて当たり前だ」

 母は笑った、なぐられた。歯が一本、ぽろりと取れた。

 夢の中の母はまた少しだけ、またふくらんだ。その後もふくらんでふくらんでふくらみつづけた。


 私が最後に家にもどった時のこと。

 その時には私はすでに朽ちた木のようになっていた。実家には仕送りをしていたが、もうその見込みもなくなるかもしれない。それを伝えるつもりだった。

 家の前に3、4名の人がいた。中からは金切り声がひっきりなしに聞こえる。それが女の声だということがなんとか、わかるくらいだ。マドにはすべてコンクリート色のカーテンがひかれ、中はまったく見えない。

 ドアに近づく。チャイムをおそうとした時、臭いがあった。イヤだった。これをあけてしまったら、取り返しのつかないことになると思った。私はイヤだった。イヤだった。何が私をこんなことにしてしまったのかが分からなかった。

 そして、くもりガラスの向こうから、ふくらんだものが近づいてきた。

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病院の中の書き置き。 脳幹 まこと @ReviveSoul

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