第54話 平手打ち

 夜が、やってきた。


 会社帰りのサラリーマンたちが、駅からわらわらと出てくるのをボンヤリと眺めながら、僕はまだ家に帰らずにいた。


 なんとなく、家には帰りたくなかった。その理由は、わからないけど……。


 こうしてボーッと外を歩いていると気が紛れる。少なくとも、家でジッとしているよりはいくらかマシだと思えた。


 何も考えずに歩いていると、いつの間にか僕はカナエと出会ったあの公園にやってきていた。


 時間帯もあってか、やはり公園には誰もいない。


 街灯に照らされた真っ赤なベンチが、ポツンと鎮座している。


 灯りに惹かれる虫のように、僕はフラフラと街灯の光へと歩み寄りベンチに腰掛ける。


 ベンチに腰掛けてみて、僕は初めて自分が酷く疲弊している事に気がついた。


 思えば、朝から何も食べていない。水も飲んだ記憶が無かった。


 一日中、何も補給せずにブラブラと歩いていたことになる。体には少なからずダメージがあるのだろう。


 しかしそれでも、僕には食欲も……喉の渇きですら感じられなかった。


 足を止めてしまった事で、言いようのない不安な気持が脳内をグルグルと駆け巡る。


 少し吐き気もしてきた。


 それがうつ病のせいなのか、それとも一日中水も飲まずに歩き回ったせいなのかはわからない……。


 カツカツと、硬質な音が公園の外から聞こえてきた。


 街灯の薄明かりに照らされて、薄らと人影が見える。


 その人影は、どうやら女性のようだった。


 カナエがやってきたのだろうかと一瞬思ったが、人影は小柄ではあるが明らかに大人のものであることに気がつく。


 人影が公園に入ってきた。


 こんな時間に公園に用事のある大人がいるなんて、めずらしい事もあるものだ。


 僕が自分の事を棚上げにしてそんな事を考えていると、人影は迷いの無い歩みで僕の近くまでやってきた。


 街灯に照らされて人影としか認識ができなかった人物の姿が顕わになる。


 仕事帰りだろうか、スーツ姿の小柄な女性。髪を後ろでまとめ、細身の眼鏡をかけている様はまさにビジネスウーマンといった風貌をしている。


 女性は、僕の座っているベンチまで歩み寄ると、何も言わずに僕をジッと見下ろしてきた。


 見覚えの無い顔だ。少なくとも親しい間柄ではない事は明らかである。


 困惑しながら僕も女性を見上げる。


 互いに無言で見つめ合う不思議な時間。心なしか、彼女の視線は少し鋭いように感じられた。


 何か喋りかけた方が良いのだろうか? 僕がそう考えた時に、女性が初めて口を開いた。


「こんばんは……失礼ながら、アナタがアイザワさんでしょうか?」


「ええ……僕は相沢ですが……」


 何故目の前の女性が自分の名前を知っているのだろう? 何度も言うようだが、僕は彼女の顔にまったく見覚えが無い。


 女性は、何かを納得したように小さく頷くと、ぺこりと軽く頭を下げた。


「では少し失礼いたします」


 何を?

 と僕が問いかけるより早く、女性は動いた。


 大きく右手を振りかぶり、開いたその掌で僕の左頬をピシャリと打ったのだ。


 所謂平手打ち。


 少なくとも、大人になってから誰かに平手打ちをされるというのは初めての経験だったし、それが初対面の女性が相手というのは、最早状況が突飛すぎて理解ができなかった。


 ジンジンと痛む左頬を押さえ、視線を上げると女性がキツくこちらを睨み付けているのがわかった。


「私は、カナエの母です……そう自己紹介すればわかるでしょうか?」





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