第49話 困惑

 しばらく無言で花沢の背中を見続けた。


 ボールペンと原稿用紙が擦れる音だけが、部屋を支配する。


 どれだけの時がたっただろう? 断続的に動いていた花沢の手が止まった。何事かと思っていると、彼女は一つ大きな伸びをしてこちらに振り返る。


「昼メシ……食べる? 作るけど」


 手元の時計に眼を落とすと、どうやらいつの間にか昼時になっていたようだった。なんということだ。僕はただ花沢の背中を眺めて数時間の時を過ごしていたらしい。


 しかし、今日の花沢はいやに親切だ。長い付き合いだが、彼女の手料理を食べた記憶などない。まあ、それだけ今の僕の状況が惨めだということなのだろうが……。


 正直空腹など感じていない。しかし、朝から酒しか胃に入れていない今の状況はあまりよろしくないだろう。花沢の手料理というものにも興味があるし、せっかくの好意は受け入れることにしよう。


「ありがとうございます。いただきます」


「了解……あと、敬語やめて。仕事中は敬語で話すのがポリシーみたいだから何も言わなかったけど、今は仕事してる感じでも無いでしょ? 正直アンタに敬語使われると調子狂うのよ」


「ですが…………いや、そうだな。わかった」


 今まで何となくケジメとして仕事中は敬語で話していた。確かに少し違和感があったのかもしれない。


 それに今の僕は、仕事をしているとは言い難い状況だ。花沢との間に下手な壁を作る必要も無いだろう。











 数十分後、僕と花沢は小さなちゃぶ台を挟んで二人で飯を食べていた。


 ちゃぶ台の上に並べられたのは、二人分の皿に盛られた焼きそば。具の一切無い質素な焼きそばは、きっと麺に附属していたソースをかけてフライパンで炒めただけのものだろう。


 花沢が料理上手なタイプだとは思っていなかったが、思っていた以上にシンプルな料理を前にして、少し笑えてきた。


 こんな最低な気分の時にも笑えるのだと、不思議な感覚に陥る。


 昼飯に対する僕のリアクションなど知らんぷりで、花沢はいただきますも言わずに焼きそばを食べ始める。


 普段からこんな食事をしているのだろうか?


 余計なお世話だとはわかっているが、彼女の体調が心配になる。


 だが、前にこういった話題を出したときに明らかに花沢が不機嫌になった事を覚えているので、今回は口出しをしない事に決めた。


 第一、僕は彼女の好意で昼飯をご馳走になっているのだ。文句を言うなんて失礼なことじゃないか。


 小さく「いただきます」と口にして、僕も焼きそばを食べ始める。


 予想していた通りのシンプルなソースの味。しかし、悪くは無かった。余計な事を一切していないからだろうか? 焼きそば本来の小麦の味が良く引き立っていて、むしろ旨いとすら思える。


 しばらく、無言の時間が続く。


 そもそも、僕たちはどちらともおしゃべりな方では無い。学生時代から、二人で居るときは無言の時間が多かった。


 そして、僕はその無言の時間が嫌いでは無かった。


 無言が許されるその空気が、気楽で心地が良いとさえ感じていた。


 こうして花沢と二人で飯を食っていると、大学の頃を思い出す。


 あの頃も、花沢は人付き合いが苦手で、僕以外の部員とはほとんど会話をしない奴だった。だから、僕は部長として、彼女に大学生活を少しでも楽しんでもらおうと、色々な場所に連れて行ったものだ。


 花沢は、そんな僕にぶつぶつ文句を言いながらも一緒に着いてきてくれた。


 ちらりと視線を上げ、対面の花沢を見る。


 学生の時と、彼女はほとんど変わらない。


 ボサボサの黒髪に、野暮ったいジャージ姿。ギョロリとした三白眼も、見慣れてみると妙な愛嬌がある。


「……なに見てんの?」


「いや、別に」


「ふぅん? そう……」


 そうして、僕は仕事に全く手をつけることができないまま、一日を花沢の家で過ごした。


 彼女は、そんな僕に何も言わなかったし、何も聞かなかった。


 その優しさが、正直、とてもありがたい。


 花沢の家からの帰り、電車に揺られながら、スマホを確認する。


 靜香からの返事は、まだ来ていなかった。




◇  

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