第32話 紙とペン



 自宅に戻った僕は、文具店で買った商品が入った袋をとりあえず机の上に降ろす。締め切っていたカーテンを開けると、夕日が部屋に靜かに入り込んできた。


 夕日で紅く染まった自室は、何だか普段とは別な空間に見えて趣深い。


 冷蔵庫を開け、僕はミネラルウォーターのボトルを取りだしてキャップを開けた。酷く喉が乾いていたので、500ミリの水を一気に飲み干す。


 一気に水分を取っても、体には吸収されにくいと、どこかで聞いたことがある。だから水はこまめに少しずつ飲むべきなのだと、確かそういった内容だった筈だ。


 しかし、水分が吸収されようがされまいが、乾ききった喉を一気に通り抜ける冷えた水の感覚は何物にも代えがたかった。


 ボトルを一気に飲み干した僕は、冷蔵庫からもう一本ボトルを取りだして机に向かう。


 机の上に置いてあった充電中のノートPCを別の場所にどかし、ビニール袋から文具店で購入した品を取りだした。


 40×40の原稿用紙の束。そして、黒を基調としたシックな万年筆とインク瓶。


 自分が万年筆を使うなんて、今まで考えた事が無かった。文字を書くなら安もののボールペンで十分だし、文字を書くという行為があまり得意ではない僕は、仕事でもプライベートでもPCの文書作成ソフトを使用することを好んだ。


 しかし、文具店でちらりと見かけたこの万年筆は、何故か僕の心を掴んだのだ。


 黒を基調とした、いかにもといった風貌の万年筆。余計な装飾品の一切無いその一本は、文具店の店主曰く、腕利きの職人が作った確かなブランドらしい。


 キャップを外してみると、ペン先は鈍い金色をしており、本体の重厚な黒色と合わさり、高級感が感じられた。


 原稿用紙を一枚取りだし、万年筆の試し書きをしてみる。


 ペン先が紙を擦るカリカリとした感触。ボールペンで文字を書いた時とは明らかに違う、今自分は文字を書いているのだという確かな実感が、僕を驚かせた。


 しばらく試し書きをした後、問題がなさそうだと判断した僕は、試し書きをした原稿用紙をクシャクシャにまるめ、近くのゴミ箱に捨てる。


 新しい原稿用紙を取りだし、真っ白なその用紙に向き合った。


 こうして原稿用紙に向かうのはいつぶりだろうか?


 小学生の頃、夏休みの宿題で原稿用紙に作文を書いた記憶を思い出す。じんわりと汗ばむ暑さと、うるさいくらいに鳴り響く蝉の声。


 あの頃は、余計な事なんて何も考えてはいなかった。


 ただ原稿用紙に向かい、文章の構成など何も考えずにただ思うがままに文字を綴っていたのだった。


 そして僕は原稿用紙にペン先を置いた。


 自分でも驚くほどに、最初の一文をすんなりと書き始める。


 まるで今まで小説が書けなかった十年間が、悪い夢だと言わんばかりに、何か余計な事を考える間もなくペン先が動き出す。


 最初の一文はこうだ





”使い古された、ボロボロな机の上に叩きつけられた原稿用紙。時代錯誤な手書きの小説だった”





 そう、これは僕の物語。


 圧倒的で暴力的な才能に押しつぶされて、無様に地を這いながらも空を自由に駆ける彼女を見上げ続けた凡愚の話。


 才能という狂気に焦がれた、退屈な男の……未練に満ちた凡庸なストーリーだ。



 

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