第五章3 さくせんノート

 部屋に戻ると、手に持ったままのノートに視線を落とした。


 『さくせんノート』。勉強用じゃないのは確かだ。

 何の『さくせん』か。それは、簡単に想像できるような気がした。


「見たほうがいい、か……」


 ――本当に、いいんだろうか。このノートを見て。


 俺は彼女の誘いを断った。

 彼女を傷つけてまで、自分のことを守ったのだ。


 そんな俺に、彼女と関わる資格はない。

 彼女が俺に関わることも、きっともうない。


 だが、このノートはこうして俺の手元にやって来た。

 失くしたと思った縁を辿って。

 俺を追いかけてきたかのように。


 それは、偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎていた。

 だから俺は、揺れている。


 きっとこのノートは、開くべきではない。

 だって、俺がそう決めたから。

 彼女とはもう関わらないと、人前で踊ることはできないと、そう諦めたから。


 でも、ノートが語りかけてくる。

 ペンで太く書かれた文字が、茶色い表紙に気ままに描かれた落書きが、あんまりにも彼女らしく話しかけてくる。


 それは抗いがたい誘惑だった。

 その声をもっと聞きたいと、そう願ってしまう自分がいた。


 開いてしまったらきっと、俺はまた悩むことになる。苦しむことになる。


 ――それでも。

 ノートの端に指を掛ける。表紙の固い感触が、親指の先に刻まれる。


 ――それでも、俺は今この瞬間、このノートがここにあることを。

 ノートの端を摘まむ。ザラザラした表紙が少したわむ。


 ――ただの偶然とは思えないこの事実を、まるでアニメのようなこの出来事を、こう呼びたくなってしまった。

 表紙を掴んだ手を、ゆっくりと動かした。


 ――運命、と。


 開かれたそこには、まっていた。

 桜の花びらのようなかわいらしさで、彼女の文字が。彼女の言葉が。


『咲楽くんをその気にさせる作戦!』


 大きすぎる見出しだ。その下に、箇条書きで羅列されている。


『まずは、仲良くなろう!』

『仲良くなるためには、オタクトーク!』

『MINE交換して、話す機会を増やしたい』

『DVDの貸し借りとかすれば、もっと仲良くなれるかも』

『咲楽くんはブレイブが好き。試写会のチケット申し込む!』

『仲良くなったら、少しずつダンスの話も』

『ダンスを見てもらう楽しさを伝える。

 発表会を見てもらおう!』


 次のページからは、日記形式になっていた。


『四月十二日。咲楽くんのダンス、すごかった! 咲楽くんとなら、最高のアニソンダンスができそう!』


『四月十三日。今日は、咲楽くんとお話をした。ブレイブが好きみたい。あの話しぶりはかなり。チャンプも好きみたいだけど、けっこう好みの幅広そうだし、もっといろいろ聞いてみよう!』


『四月十七日。咲楽くんのMINEゲット! やったー! これでもっと仲良くなれたらいいなー』


 なんてのが、ずっと、ずっと書いてある。

 そして、最後のページ。


『五月二十九日。明日は、いよいよ咲楽くんにあたしのダンスを見てもらう。

 最高のショーにして、お客さんをいっぱい湧かせて、ダンスを見てもらう楽しさを伝える!

 緊張する……けど、いっぱい練習したし、大丈夫だよね。咲楽くんも、きっと気に入ってくれる! はず! たぶん!

 とにかく、全力で頑張る!!』


 そして、その最後。



『絶対に、咲楽くんといっしょに踊りたい!』



「……何だよ、これ」


 ノートの文字を指でなぞる。

 甘音の声が、頭の中で聞こえる気がした。


 そんな大きな文字で。

 枠からはみ出しちゃって、まぁ。


「何なんだよ……」


 本当に、何なんだ。


 俺にそこまでの価値なんかない。

 俺より上手いダンサーなんか、いくらでもいる。

 俺よりもアニメが好きな奴なんか、いくらでもいる。

 それなのに。


 俺と。


 他の誰でもない、俺と踊りたいと。

 そう言ってくれるのか。


「だから、そういうの。ズルいって言ってるだろ」


 一度も、口にしたことはないけど。


 そのとき、スマホが震えた。

 不安と期待と戸惑いが、頭の中で乱れ飛ぶ。鈍い動きでスマホをつかんだ。

 おぼつかない手つきで画面を開くと、そこには今度こそ。


 甘音のメッセージが届いていた。

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