第三章4 クレープとオレンジ

 歩いて、歩いて。

 あの二人が見えなくなって、それでも歩いて。

 目的地がわからないまま、とにかく歩いて。


「ね、ちょっと」


 不意に、手を引っ張られた。


 そう言えば、手を繋いだままだった。

 思い出して冷や汗をかくが、彼女の声に不満の色はない。


「こっちこっち」


 逆に、そのまま手を引かれた。


 戸惑う俺は手を離すタイミングを失って、そのまま彼女に引っ張られていく。

 いったいどこへ向かってるんだ、と思った矢先。


「ね、好きなフルーツは?」


 出し抜けにそう聞かれた。


「え……メロンかな」


 とりあえず答えてみると、


「あ、よかった! ちなみにイチゴとバナナは?」

「まぁ、どちらかと言えば好き」

「よし、じゃあ決まり!」


 そして、彼女は不意に立ち止まった。

 何が決まったんだろう――という疑問に、独特な甘い匂いが答えをくれた。


「すいませーん! フルーツカスタードとキャラメルブラウニー、一つずつ!」


 クレープ屋だ。

 ちょうど並んでる人もいなかったから、着くなり即座に注文を済ませた甘音。


 いや、うん。何これ。


「あの、甘音さん?」

「あ、しまった! クリームとかも大丈夫だよね?」

「それは大丈夫だけど……」

「よかったー。あ、キャラメルブラウニーのがいい?」


 いや、食べることは決定なの? 嫌いじゃないし別にいいけど。

 支払いを、と思ってカバンを開けると、甘音はパパッと会計を済ませてしまった。そして、


「はい! 持って! あたしのおごり!」

「いや、お金は出す……」


 抵抗しようにも、強引に渡されたクレープで右手が塞がる。

 さらに左手は、


「いいからいいから! はい、持ったら今度はこっち! れっつごー!」


 甘音の手に塞がれる。またしても連行だ。

 いや、先にやっといて何だけど、当たり前のように手を繋ぐのやめてほしい。


 あ、先にやったのは向こうか。

 そう言えば、映画館を出るときもこんな感じだった。


 彼女に手を引かれて、引っ張ってもらって。そして――


「うん、時間いい感じ!」


 連れてこられたのは、ショッピングモールの屋上だった。


「これ……」

「きれいでしょ、夕焼け! お気に入りなんだー!」


 確かに、きれいだった。


 こたつの電熱線みたいなオレンジ。

 小さい頃はよく、その色の中に潜り込んで、ぬくぬくと温まってたっけ。


 そのオレンジが、空を、ビルを、俺たちを染めて。

 都会のビルたちも、こうして見ると温かく見える――なんて。


 さらに手を引かれ、夕日が正面に見えるベンチに二人で座った。

 これ以上はない特等席だ。


「さ、食べよ!」


 言いつつ、彼女はもうクレープにかじりついている。

 俺も同じようにすると、生クリームの甘さと、フルーツの爽やかな香りが体に染み渡った。


 おいしい。


 二口、三口と食べ進め、自然とため息が出る。

 ホッとするって、こういうことかも。


 俺は、横目で甘音を見る。


「なんで……?」


 どういうつもりで、俺をここに連れて来たんだろう。わざわざクレープを買って。


 その答えは推し量れそうな気がしたけど、それは希望的観測かもしれないけど。

 俺はつい聞いてしまった。


「なんか、辛そうに見えたから。そういうときは、おいしいもの食べて、きれいな景色見れば、忘れられるでしょ?」


 彼女の答えは予想どおり。

 いや、期待どおりだった。


 俺はそんなことを、彼女に期待してしまっていた。

 そのことに動揺を隠せない。

 そして、そう――やっぱり。


 やっぱり俺は、辛そうに見えたのか。


「……いや、忘れないし」


 忘れられない。

 忘れてはいけない。


 それは、俺が肝に銘じたことだから。「え!?」と驚く彼女には、申し訳ないけど。


「でも……ありがとう」


 だから、そう言った。


 顔を見て真っ直ぐに、とはいかなかったけど。

 気持ちの上では真っ直ぐに。

 同じ色の中にいる今なら、伝わると信じて。


「どういたしまして!」


 直視できたのは一瞬だけ。

 目に焼き付いて、目が焼け付いてしまいそうなほど、眩しい笑顔。


 目を細め、夕日を真っ直ぐ見る。

 こっちの方が、いくらかマシだ。


 それで、会話は途切れて。しばらく二人で、黙ってクレープを食べた。


「……聞かないんだ」


 食べ終わって、包み紙を手の中でいじりながら、俺はボソリと聞いた。


「ふぇ!? な、何が?」


 え、何その反応。そんな変なこと言った? 逆にこっちが驚くわ。


「アイツらのこと」


 そう言うと、彼女は納得したような顔をした。

 同時に、何かホッとしたようにも見える。


 何なんだ、と思っているうちに、彼女は穏やかに微笑んでいた。


「話したい?」

「……いや」


 話したくはない。

 むしろ、他の誰でもなく、彼女にだけは聞かれたくなかった。


「なら、聞かない。でも、話したくなったら、聞くからね」


 ありがたい。

 そうして踏み込まないでいてくれるから、きっとこの関係は続いている。


「……そろそろ、帰ろうか」


 夕日もいよいよ沈もうとしている。

 帰るにはいいタイミングだろう。

 少し気合いを入れて立ち上がると、


「あ……」


 彼女は、何故かそんな声を出した。


「え、まだ何かあったり……?」


 この後ってなると、もう夕食まで行くコースだけど。

 それはさすがに、残金が心もとないんですが……。


「あ、ううん。……何でもない。行こっか」


 が、彼女も結局立ち上がった。

 心に引っかかりは残るが、正直ホッとした。

 たぶん今の俺は、まともじゃないから。



 オレンジに紫が混じり始めた空の下、俺たちは帰路についた。

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