二章 妖精の取替子《チェンジリング》

妖精の取替子 1

 細いメガネをかけた祭司が机上に置いたトレーには、一通の封書だけが入っていた。

 飴色の木材に細やかな植物の彫刻を施したトレーは、重要な書類を運搬する際に使用される騎士団の備品である。

 使い込まれて手触りがなめらかになり、味のある色合いに変わったそれは、騎士団が結成されてからずっとここにある品のひとつだ。

 オグマ騎士団で正式な書類に使われるのは、騎士団の文様が透かしで入った生成りの特製紙。

 海の向こうから運ばれてくる紙は中央都市に集められ、そこから各地に配分される。

 紙は破れやすく長期の保存も難しい。羊皮紙を使用することも多いが、これは日々の報告書などに使用するにはやや高価。

 オグマ城では、中央から支給される比較的安価な紙に、城内の工房で専任のドルイドが魔術を施し、しなやかで破れにくく長期保存に耐えるものに加工している。透かしはこの工程で入る。

 ダーナ神殿や各都市の市庁舎でも同じだという。

 作成した書類は、インクが乾くのを待って数度折り、溶かした蝋に印璽を押したもので封をするのが決まりである。

 封に用いられた赤い蝋に押されている丸い文様は、鳥の片翼に交差した剣とロッドが重なって描かれたオグマ騎士団の紋章。下部にオグマの名と作成者の頭文字が入っている。

 封に使用される印璽は団員全員が叙任される際に与えられるものだ。オグマ騎士団の誰が作成した書類であるか、印璽の頭文字を見れば察せられる。


「ふむ」


 封書を手に取ってひとつ頷いた老人は、おもむろに封を切った。割れた蝋の破片が机上に落ちる。

 ダーナ神殿の祭司ダンは、老人の仕草をひとつひとつ興味深そうに見つめている。

 封書トレーをここまでうやうやしく運んできたのはダンだった。

 今朝がた廊下で封書の作成者と行き合い、用事のついでに渡すから、と言いくるめて預かったのだ。

 ダンは意識して表情を引き締める。そうしていないと、口元がゆるむのを止められそうにないからだ。

 過日オグマ騎士団にワイバーン討伐の依頼があった。封書はその顛末を記した報告書である。

 ワイバーンが一頭、山に近い村に突如として現れ、家畜や人間に襲いかかった。厩舎が壊され牛が十数頭やられ、農具を構えて応戦した農夫たちに三名の死者が出た。

 人々は家畜たちを厩舎に押し込め、家にこもって扉を固く閉ざした。

 ワイバーンの咆哮が不気味に轟く。迂闊に外に出たらいつ襲われるかわからない。

 だが、いつまでも閉じこもっているわけにもいかない。

 備蓄の食材はやがて底をつく。生きていくためには畑や牧場に出て働かなければならない。日用品や食料の買い出しも必要だ。

 ワイバーンの出現と襲撃の報が空の砦にもたらされたのは五日ほど前だった。

 凶悪なワイバーンの討伐を、いくつかの村の村長たちが連名で依頼してきたのが三日前。

 任を受けた騎士とドルイドがワイバーンを倒したのが昨日のこと。

 時間にすればほんの数日。しかし村人たちにとって、その間の恐怖は相当のものだったに違いない。

 ワイバーン討伐が果たされたことは、既に村々に通達されている。脅威が去った村々では早速家畜の放牧が再開されたという。

 文書の末尾に添えられた作成者の名はジェイン。世間では『閃烈のジェイン』と呼ばれる有能な女性騎士である。

 この討伐に派遣されたのは、つい先ごろ騎士とドルイドに叙任されたばかりの少年たちだ。

 報告書に目をとおした老人は嬉しそうに目を細めた。


「ふむ。よしよし。これでこの件は済んだな」


 満足げな声音に、ダンの口元があっけなくゆるんだ。今回ワイバーン討伐を果たした少年たちは、ダンにとってたまに顔を合わせる年少の親戚のようなものだ。昔から知っている身内が最高位のドルイドに評価されることを喜ばない者はあまりいないだろう。

 向こうがダンのことをどう思っているかはさておき。


「まぁ、紆余曲折はあったようですが。なんとか初任務をまっとうしましたよ、あのふたりは」

「そうか、ふむふむ、そうか、そうか」


 しきりに頷くミルディンは、湧き上がってくる喜びにひたっているようだった。

 若き騎士クールと、そのついとなる若きドルイドセイ。彼らが正式にオグマ騎士団の団員に叙せられたのはつい最近のことだった。


「あの小さかった子供たちがのぅ…」


 ミルディンの呟きには万感の思いがこもっている。

 ふたりは十一年前にこの城にやってきた。クールもセイも五歳だった。

 彼らをここに連れてきたのが、オグマ騎士団ドルイドの頂点に君臨する最長老ミルディンそのひとだった。

 報告書をたたんでトレーに置いた老人に、ダンは切り出した。


「それで、ミルディン。セイに何を言ったんですか」


 老人は怪訝そうに眉根を寄せる。 


「何を、とは?」

「ほら。おととい、セイを呼びつけたでしょう」


 昨日も同じ質問をしたのだが答えてもらえなかった。


「いいじゃないですか。教えてくださいよ。あなたの部屋から出てきたセイの顔は、いささか強張っていたようですが?」


 ミルディンは数度瞬きをした。記憶を手繰って思い至ったのか、薄く笑う。


「ああ。そろそろ、新たな精霊の王と契約を交わす頃かと思ってな」


 老人の言葉にダンは目を瞠った。


「えっ、待ってくださいミルディン。そろそろと言っても、あのふたりが入団の儀を終えてから、まだ三月と経っていませんよ?」

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