第40話 試される様な転機は来たるべくここに

 

「みんな今までたくさんお店を盛り上げてくれて、本当にありがとうございました。

 ボクは今日で一旦現場を離れますが、明日からは篠崎さんがこのお店を引っ張ってくれますので、どうか力を貸してあげて下さいね」

 


 この時間軸でのちょうど二年程前、オープニング前のオリエンテーションが行われて千智ちさと錬次れんじは出会った。

 俺達新米を導いてくれた新井店長は二約年間の責務を終え、明日からは本社勤務のエリアマネージャーとして各地の店舗運営に携わる。

 ここ最近引き継ぎに来ていた篠崎新店長は、店長歴の浅い真面目な女性社員だが、熱血漢の矢野さんと何故か馬が合い、新体制へと変化する大杉店を良い形で作り上げていく。

 新井店長による最後の朝礼はしんみりとした空気感に包まれるが、それだけ他のスタッフ達も充実して働けたという事なのだろう。

 


「新井ざぁん! 

 あだじも代行者として頑張りまずがら、また顔見せに来でぐだざいねぇ」

 


 この店ナンバーツーの店長代行者に昇格した松本さんは、顔をぐしゃぐしゃにして鼻水をすすりながら話している。

 彼女のこういう情に脆い一面がみんな好きだった。

 


「松本さん、そんなに泣かないでね。

 今生こんじょうの別れじゃないんだから。

 このお店には期待の若手もたくさんいるし、ボクもまた様子見にくるよ」

 


 こうして新井さんを店長と呼ぶ最後の日は幕を閉じ、怒涛の大杉店第二章が開幕した。

 スタートこそ慎重な姿勢を見せたものの、二週間も過ぎた頃には新店長も頭角を表し始める。

 


壱谷いちたにくん、さっきの売り込みすごく良かったわ。

 その調子で新商品をどんどんアピールして!」

 

「はい、ありがとうございます篠崎店長!」

 

二色にしきくん、丁寧な対応はお見事だけど、少しお疲れかしら? 

 有給も多く残ってるみたいだし、忙しくなる年末前に身体を休める事も大切よ」

 

「すみません。

 疲労の自覚は薄いんですが、検討してみます」

 


 千智と千紗ちさのシフトがあまり被らず、どちらの様子も見ていたい俺としては、最近有給の使い道を考えていなかった。

 少し前に比べればだるさも弱まり、調子も上がってきてたつもりだったが、篠崎店長にはそう映らなかったらしい。

 


「そういや錬次、ここんところ公休以外で休み取らないな。

 体もつのか?」

 

「仕事に打ち込んでるのが好きなんだよ。

 お前みたいに休みが欲しくてたまらない時期でもないからな」

 

「違いねぇな。早く一美ひとみと出掛けたいわー。

 それよりお前は彼女作らないのか?」

 


 一瞬キョトンとしてしまったが、本当に最初から最後まで千紗との関係に気付かないんだろうなこいつは。

 自分の事で頭がいっぱいなのも分かるが、ここまで鈍いとこれはこれで感心する。

 このお花畑恋愛脳め。

 


「今の生活も俺なりに充実してるんだよ」

 

「そうなのか。ならいいや」

 


 その日の仕事後は千紗が手料理を振舞ってくれると言い、俺の部屋に泊まりに来た。

 彼女の作った夕食はお世辞抜きで本当に美味しく、この味と満たされる気持ちで元気もみなぎってくる。

 


「仕事中の俺ってそんなに疲れて見えるのかな?」

 

「篠崎店長もよく見てるんだね。

 接客後に少し下を向いてたりとか、時々そう感じる瞬間があるよ」

 


 やはり態度にも出てしまっていたのか。

 無意識にそんな行動を取っているのなら、なんとか改善しなくては。

 


「……ねぇ錬次くん、繁忙はんぼう期になる前に何処か旅行でもいかない?」

 

「旅行? 二人だけで?」

 

「うん。温泉とか入ってリフレッシュすれば、身体の疲れも取れるかなって」

 


 俺としても嬉しい提案だが、彼女と二人で旅行なんて家に泊まるのとは別の緊張感があるし、それなりのシチュエーションを考えてしまう。

 本当に良いのだろうか。

 


「千紗ちゃんのご両親から許可は降りるのかな?」

 

「ちょっと待ってて」

 


 そう言うと彼女はスマホを手に取り、どうやらメッセージを打ち始めたらしい。

 鼻歌を歌いながら、気分良さそうに指を動かしている。

 


「本当はね、うちが錬次くんと二人でお出掛けしたいだけなんだ」

 


 悪戯いたずらっぽい彼女の笑顔からは、それが本心だとすぐに分かった。

 レンタカーでも借りて遠出をするのもありかもしれない。

 


「あ、お母さんから返信来たよ!」

 

「なんだって?」

 

「行き先を教えてくれれば良いって! 

 あとあんまり羽目を外しちゃダメよって書いてある」

 

「そっか。親御さんの許可も降りたなら、差しあたる問題も無いな。

 なんか俺もわくわくしてきたよ」

 


 スッと椅子から立ち上がった彼女は、座ったままの俺の背後に回り込んだ。そしてゆっくり背中側から肩を抱くと、自分の頬を俺の顔に密着させる。

 その柔らかい感触と優しい匂いだけで、脈を打つ力が強くなっていく。

 


「楽しみだね」

 


 ハートマークが付きそうな甘い囁きに、うぶな少年のように身体が強張ってしまった。

 こういうエロ可愛さを彼女はどこで習得したのだろうか。

 


「千紗ちゃんは誰かと旅行したことあるの?」

 

「なんで? 気になるのー?」

 

「……そりゃ気になるよ」

 

「去年の春休みに友達と三人で行ったよ。

 それまでは家族旅行だけ」

 

「その友達って、男はいないよね?」

 


 ドキッとした拍子に、つい上半身だけ振り返ってしまった。目の前で落ち着いて呼吸をする彼女は、何故だかニヤけている。

 軽く吐かれた吐息は俺の肌をくすぐる様に刺激し、そのまま不意打ちで唇を奪われた時には、意味が分からず咄嗟に目を見開いた。

 


「うちの初めては全部あなただよ」

 

「今まで付き合った人がいないってこと?」

 

「高校生の時に彼氏はいたけど、手を繋いだくらい」

 

「キスもしてないの?」

 

「したいって思えたのはあなただけ」

 


 自分は前世で結婚までしてるのに、心の底からホッとしてしまった。

 まるで精神年齢まで若返っているみたいだ。

 


「そっか。じゃあ君は天然の小悪魔なんだな」

 

「なにそれー!」

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