第四章 二年目を迎えてもこの場所には変わらないものがある
第26話 こうして新たな一年の始まりが訪れる
夢を見た。
懐かしい夢だ。
妻と過ごした広めのリビングに、馴染みのある逞しい腕と脚。そして目の前に居るのはここ最近見飽きた
思えば浮気現場で目撃した奴は、少しばかり痩せていた気がする。それでも相変わらずの爽やかな笑顔で、すぐに奴だと気付いた。
そのお前がなんで俺の家に居て、何故そんなに申し訳なさそうな顔をしている?
声を掛けようとした瞬間には現実に引き戻されていた。
目を覚ましたこの日は一月二十五日で、俺が過去の世界に来て丸々一年が経つ。
あまり寝覚めが良いとは言えないが、久々の早番シフトなのでおちおち二度寝も出来ない。シャワーで強引に気を引き締めてから、朝食も摂らずに店へと向かった。
「えー、今日は皆さんに重大なお知らせがあります」
休憩室に入るとスタッフ達が集められ、何やら真面目な表情の矢野さんが前に立って演説を始める。
「実はこの度自分は社員昇格試験を受けまして、無事に合格致しました!
来月からは正社員として二年目の大杉店を引っ張っていく所存ですので、皆様これからもお力添えの程よろしくお願い致します!」
なるほど、この光景が初見なのは、今日は
それにしても朝っぱらからお堅い挨拶だな。
「おめでとう矢野くん!
これからは接客が暑苦しいってクレーム貰わないようにしないとね!」
藤田さんの茶々入れで、室内がドッと笑いに包まれた。
「それはもちろんです!
社員となったからにはもっと売上げに
おいおい、原因の根本を解決する気無いだろあんた。しかもこの空気でこちらに注目を寄越されても、ちっとも嬉しくないんだが。
謎の拍手喝采に、俺は耳を塞いで逃げ出したい気分だ。
「いえいえ、これからもご指導ご鞭撻の程よろしくお願いしま……」
「お前に教えられる事などもう無い!」
なに自信満々に言ってんだよこの先輩社員……
当たり前の業務を当たり前にこなしていれば、脳への刺激が薄く、今朝見た夢の内容も気になって仕方がない。いつもより工夫を凝らして仕事に取り組んでいると、本日の主役がやってきた。
「おー、このレイアウトすごく綺麗だな!」
「矢野さん、ちょっとディスプレイの配置と、前に出すカラーを変えたんです。
これなら手に取って見たくなるかなと」
「やっぱ二色はすげぇな。
こういう行動力もだけど、何よりお客様目線を一番に理解してる気がするよ」
そんな大した事をしているつもりはないんだが、実際はこの業界に七年以上いるんだし、当然の評価でもあるのか。
「あとで
あいつが二色レベルになれば、この店の売り場は安泰だ」
あからさまに張り切る矢野さんを見ていて、なんだか微笑ましくなった。俺も社員に成り立ての頃は、こんな風に積極的だったかも知れない。
その日も順調に進んでいき、そろそろ遅番も来た頃かと休憩室を覗くと、千智と
「あ、錬次先輩おはようございます!
今日も売り場は賑わってますね!」
もっと落ち込んでるかと思ったが、一美の様子は何も無かったかのように自然だった。
それも演技によるものなのか?
「おはようお二人さん。
平日にしては客足が多いから頑張ってくれよ。
特に千智は矢野さんにも期待されてるからな」
「当然だろ!
いつまでも錬次にばっか頼っていられないし、お前がいなくてもなんとかやってみせるさ」
夕方までに出来るだけの事をやり、その日の退勤入力を終えた俺は、挨拶をして帰ろうとバックルームに足を運ぶ。そこでは大きなパッキンを移動させる千智と、俯き気味の一美の姿があった。彼女の視線の先は、一年前に俺が錬次として目覚めたその場所だ。
「ここでお兄ちゃんは………」
「どうした
何か見付けたのか?」
二人の様子を目の当たりにした俺は、物凄い胸騒ぎを覚える。
「ボーっとしてすみません千智先輩。
なんでもないです」
この時の一美の苦笑と、それを見て異変を確信した記憶が、俺の中で鮮明に蘇っていく。
この後俺は確か……
「そっか。
何かあったら相談乗るからさ、変に抱え込んだりするなよ。
君は元気な姿が一番いい」
そう、ちょうど今の千智と同じように、一美の頭をぽんぽんと撫でながら心配を隠して笑いかけたんだ。
「ありがとうございます。
千智先輩と錬次先輩が可愛がってくれれば、私は大丈夫です!」
さっきまでの表情が嘘のように、にっこりと微笑む一美。あの顔を見た当時の俺は、彼女の笑顔をどうしても守ってやりたくなった。
全て同じだ。俺が経験してきた過去の出来事と。
空気を読んでその場を後にした俺は、店を出てすぐにスマホを手に取り
マンションの入り口付近で時間を潰しながら待つと、学校帰りで急ぎ足の千紗が視界に入ってくる。
「お疲れさま錬次くん。
急に話しがしたいってどうしたの?」
「千紗ちゃんもおつかれ。
ごめんね、突然来ちゃって。
迷惑じゃなければ上がらせてもらってもいいかな?」
何か異変を察知した様子の彼女は、不安げな顔をしてはいるものの、快く部屋まで案内してくれた。
やはりいつ見ても綺麗な部屋で、人が来ないと片付けもしない自分のだらしなさを痛感する。
「コーヒーでいい? インスタントだけど」
「あ、うん。お構いなく」
テーブルに並べられた二人分のホットコーヒー。普段なら砂糖とミルクも入れるのだが、今はその香りと苦味に直接浸りたい気分だ。
「うぉっ、結構苦いな……」
「あはは。これアラビカ種だからね。
いつもみたいにミルクたっぷりの方が美味しく飲めるよ」
本当に気が利く子だ。俺がカフェオレ並にミルクを入れる前提で、それに合う豆を使ってくれたらしい。
用意されたミルクにそそくさと手を伸ばす。
「それで、今日はお店で何があったの?」
「良い知らせと悪い知らせがあるんだけど……」
「じゃあ良い方から聞こうかな。
きっと悪いお知らせにも繋がってるんでしょ?」
察しのいい女は嫌われると言うが、察した上でいつもこちらの気持ちを汲み取ってくれる彼女を、嫌いになどなれるはずがない。俺は今日見た出来事を洗いざらい打ち明けた。
一美が事実を認知しても同一の状況が発生し、千智も同じ行動を選択している。それが意味する答えは俺には一つしか思い浮かばない。
「そっか。
あなたの知る過去と変化が起きてないなら、あなたの願いも途絶えてはいない。
でもそれって……」
「そう、ここからが悪い知らせだ。
千智だった俺も今と同じ一美を見ていた可能性がある。
つまり俺の元奥さんは、更にその未来から来た俺と関わっていたかも知れないんだ」
そう考えれば元旦の違和感にも説明が付く。
千智と錬次は似ていたんじゃない。元から同一人物だったんだ。
「その可能性には薄々気付いてたけど、もし本当なら浮気の回避どころか、壱谷さんが事故死するまでが運命にならない?」
「だから良い報告だけにならないんだよ。
俺の知る錬次が未来の俺だったとすれば、どう行動したところで何も変わらない。
全ては定められたままに進むんだ」
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