第7話
○大広間 仮面舞踏会の直前 夕刻
マシューに向けられた男爵の執心を知った令嬢・イザベラは、恋人の心を奪われることを恐れ、今夜の舞踏会で自分達が恋仲であることを公表しようと企む。
「ねえ、そうしましょう、マシュー。私、あなたと結ばれないなら、命を絶つとお父様に言うわ」
マシューはおののき、カウチにもたれる。
「きみの空想が恐ろしいよ。僕が、あの男爵になびくだって」
「毎晩、逢瀬を繰り返しているくせに」
「恋人を守るためだ」
「私とあの狼藉者、どちらを恋人と呼んでいらっしゃるの」
「イザベラ!」
ここで小間使いが小走りにて登場。男爵の来訪を告げる。
男爵は舞台に登場するなり、高らかに言う。
「父君が私との婚約を認めてくださった。今夜の舞踏会で公表すると」
マシューとイザベラ、男爵の三人が初めて一堂に会する場面である。
男の姿のマシューを、男爵は《男装したイザベラ》だと勘違いし、他方でイザベラを《女装した間男》だと勘違いするために、三角関係が混迷を極めていく。
道也は小間使いむかって
「あの見苦しい間男を追い出しなさい」
と命じる。
小間使いは恐るおそる大斗に部屋から出るよう促す。
「待て」
と、道也。
「なぜ私の美しいフィアンセを外へやろうとするのだ。ははあ。分かったぞ。私を試そうとしているのだな。男女の装いを変えたとて、この私がきみを見誤るはずがない。愛しい人。私のフィアンセ」
道也は大斗の手の甲に口づける。
小間使いはぎょっとする。
「どうして男爵様は、お嬢様にではなく、マシュー様へ愛を捧げているのかしら」
芽衣子の肩が、怒りに震える。
「彼は私のフィアンセよ!」
しかし芽衣子が大斗の腕を掴んで引き寄せたから、小間使いはますます混乱した。
「おかしいな。お嬢様は男爵様と婚約あそばしたのではなかったっけ」
まったく事情を知らぬのに、芽衣子も道也も互いを指して「あいつを追い払え」と命じてくるから、小間使いはたまらず泣き出した。
「ええい、うっとうしい」
と二人は声を揃えて言う。
「私の愛しい人に手を出すな!」
左右から取り合いにされた大斗は、道也の手を振り払う。
「身を引くべきはあなたです」
「なぜ」
「戯れはよしてください。本当は気づいておられるのでしょう。僕の正体に」
芽衣子も胸を張る。
「いやしくも爵位をお持ちなら、夜の帳の下で愛を語らった恋人を引き裂く無粋はおやめなさい」
道也が
「商売女の真似ですかな」
「なんですって」
「ベッドの上で交わした契りに意味があるとお考えか」
再び大斗の手を取る。
「愛しい人。あなたこそ気づいているだろう。自由奔放な生を求めるきみは、しがらみばかりの伯爵邸に囚われたままでは幸せになれない」
大斗ははっとした。
脚本上では「しきたり」と書かれた台詞だった。それを「しがらみ」と言ったのは単なる間違えか。
道也は本来の男爵の姿らしく、ひざまずいて大斗にすがった。
「どうか私の手を離さないで。あなたを永遠に守ると誓わせて。舞踏会が終わったら、二人で山を越え、私の領土へ帰ろう」
芽衣子は毅然として、訴える。
「決別して。この男には二度と会わないと、私に誓って。あなたと私、二人で昇る朝日を見ると誓ったでしょう」
大斗はどちらにも応えられなかった。
脚本のト書きでは、たくましい男の脚をすらりと伸ばして見せて、それから「わたくしの脚はこんなにもか弱いものですから、山登りはできませんわ」と冗談を言うはずだった。
なのに、躊躇したのだ。
四ツ谷が稽古を止めた。
「高田くん、どうした」
「すみません。ちょっと、頭が真っ白になってしまって」
「台詞を忘れたか」
「いえ、大丈夫です。覚えています」
「覚えているのに、声に出せなかったんだね」
大斗は頷き、道也に背を向けた。
中世が舞台の演目なのに、あまりに現実に近しすぎた。
今までの稽古なら、たとえ夜の駐車場にいても真夏の海を想像できたし、ジャージを着ていても銀行の頭取になりきれた。猫のぬいぐるみを生きた豹に見立てて、冷や汗を浮かべながら怯える演技だってできたのだ。
なのに、今は貴族の息子になりきれない。芽衣子を愛しく思えない。道也が男爵に見えない。
次の仕事の誘いを両者から受けて、迷う自分が立っているだけだった。
(僕は迷っている。芽衣子さんを選ぶことができない)
選べる立場ではないと、大斗は自分を諫めた。しかし次の共演者に芽衣子を選ぶことを躊躇する自分が、ここにいた。
四ツ谷が
「いい傾向だ」
と言った。
「皆、これまで脚本に沿いながら上手くアレンジしてくれたが、そろそろ限界も感じていただろう。割り当てられた役以上の人物を表現しているんだからね。憑依系役者の高田くんが一番先に台詞に違和感を覚えるのは想定内だ。安心していい」
想定内ということは、対応策が既に立てられている。
「先日の制作会議で、もっときみらの解釈に劇をゆだねて、世間ご期待の意外性を高める方針に決まったんだ。それで、台本の結末を二パターン用意してある。マシューがイザベラをとるか、男爵をとるか。高田くんに選んでもらう」
大斗は首を強く横に振った。
「荷が重すぎます」
「どちらの結末になっても、劇の面白さは変わらない。俺が保証する。それに、ここまで芝居を引っ張ってきた高田くんだから任せるんだ。劇が変質したきっかけは遠藤くんのアレンジだったが、芝居を崩壊させなかったのは、高田くんが、自分のバランス感覚をマシューに足したからだろう。このあいだ、俺は、マシューがきみの当たり役になると言ったね」
大斗は頷いた。
「きみの持ち味は、自己が消えるほど役に染まりきる演技力だ。だけど今回はマシューに高田大斗の人間味が見える。新たな魅力を引き出せたようで、演出家冥利に尽きるよ」
「そうまで考えていただけて、光栄です」
「劇を仕上げるのは俺の仕事だから、高田くんは難しく考えずに、自分が選びたい結末を選んで」
三日待つ、と四ツ谷は言った。
それまでに大斗は芽衣子か道也を選ばなければならない。
(劇中の話だ)
大斗は預かった二つの脚本を鞄にしまった。
(僕の人生とは関係無い)
三日後にも悩んでいたら、イザベラを選ぶと先に決めた。元の筋書き通りであるし、芽衣子からの覚えも良くなる。それに以前の大斗ならば、そうやって道也への溜飲を下げたはずだ。
なのに今、決断できずにいるのは、男爵が退場した後の舞台に、魅力を感じられないからだ。
芽衣子の演技は想像がつく。
少女漫画のようにロマンティックで美しい結末を描くだろう。
しかし道也がみせる終幕はどうなるか。
深い愛か、山を越えた先でマシューを殺めかねない狂気の愛憎をみせるか、まったく予想できない。
「大斗くん」
芽衣子が呼んだ。
石黒も隣にいた。そろって何の話か、大斗は眉をひそめた。
「オーケーが出たわよ。二人芝居」
「えっ」
「どうしても大斗くんと劇をつくりたいから、上の人に掛け合ってもらっちゃった」
石黒が「芽衣子さんから沢山学んで、役者として成長しなさい」と言った。「社長の指示だから、文句を言っても覆らないよ」
「文句なんか言いません」
しかし石黒の表情はかたい。
社長に楯突きかねない人物を思い浮かべている。
「――遠藤は知ってるんですか」
「俺が聞くよりも先に、黄島さんから話がいったらしいからね。ほら、今日の男爵はちょっと、しおらしかっただろ」
「あいつ」
私情を演技に込めていた。
大斗は自分のことを棚に上げて、ちっと舌打ちした。
「まだまだ未熟ですね」
「仕方ないよ。大斗くんに憧れて芝居を始めたんだから」
「えっ」
「そのうち、また一緒に舞台に立ってやってな」
しかし、その日は二度と訪れなくなった。
稽古後、道也が社長に直接抗議をしたのだ。黄島が
社長はかんかんに怒り、道也の仕事をすべて取り上げて謹慎を命じた。
深夜二時に石黒からかかってきた電話で、大斗は騒動を知った。
「今回の劇も、遠藤くんは降板させられることになったよ」
「――そうですか」
馬鹿なやつ、だと大斗は思った。
右手を撫でた。数時間前に道也がこの手にすがっていた。
――どうか私の手を離さないで。あなたを永遠に守ると誓わせて。
しかし、手を離したのは道也だった。
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