第2話
○イザベラの私室 夜明け
令嬢に扮した大斗が寝台の上で目を覚ます。うんと背伸びをして、小さくあくび。
窓ぎわから、くすりと笑う声がもれる。
「どなた」
カーテンが揺れる。バラの花束をたずさえた道也が裏から現れる。
「まあ! 誰か、誰か」
しかし道也は悠然とかまえて崩さない。形のいい唇に人差し指を添えて、
「しっ」
と大斗をたしなめる。
「私に、会いたかったでしょう」
ごくり、と大斗は息をのんだ。
(台詞が違う)
いや、台詞自体は正しい。が、この場面の男爵はコミカルな遊び人であるはずだった。
しかし道也の演技はどうだろう。
魔性の魅力をもって生娘を揺さぶる色男になっている。
「美しいイザベラ。あなたに恋するあまり、私は正気を失ってしまった。どうか無礼を許してほしい」
道也は寝台のわきにひざまずき、大斗の御足を戴いた。長いスカートの裾をそろそろとたくし上げてはふくらはぎを撫で、つま先にキスを落とした。
「あっ」
大斗は娘のように震えさせられた。
(こいつ、わざとやってる)
大斗を挑発している。
稽古場にいる全員がそれと気づいた時、本番さながらの緊張感に包まれた。
大斗は寝台から降り、ガウンを羽織る仕草をした。苛立ちながら髪を結っていた深紅のリボンをほどき、
「躾のなっていない殿方は、暴れ牛よりも手に負えない」
と、リボンを摘まんだ指の先で、戸をさした。
「出ていって」
「イザベラ」
令嬢にすがって醜態をさらすはずの道也が、一歩、また一歩と詰め寄る。
大斗は硬直した。呼吸が浅くなり、噴き出した汗で全身が冷えてゆくのを感じた。
「可愛いイザベラ」
腰に、道也の手が触れた。
大斗はひるがえって逃れようとしたが、男の手に腕をつかまれ、自由を失った。
リボンを、道也が大斗の小指に巻いた。
それから自分の小指にも絡めた。
「あなたは私から逃れられませんよ」
「恥を知って」
しかし道也の唇が、手の甲をついばんだ。それから腕を、肘を、肩を、熱い吐息が無遠慮にむさぼっていく。
ついに首元にまでたどり着くと、道也は大斗をかき抱き、
「ほら、あなたは私の中に収まっている」
と囁いた。
長身の彼の胸の中で、大斗はイヤイヤと首を横に振った。
「イザベラ」
「わたくしは、――」
「愛しています」
大斗が道也の頬をはたき、暗転。――
演出家の
それを見て、大斗はこの大掛かりなアレンジ(というよりも、アドリブという方が相応しい改変であった)が、道也の独断で行われたものだと知った。
(いい加減にしやがれ)
出ばなから芝居の色を塗り替えてしまって、残りの場面はどう創っていくのか、他の役者達も戸惑っている。
が、演出家が認めているものに、大斗が水を差すわけにはいかない。
(まるく収めるのが本業なんだから)
大斗は自嘲した。
差し入れのシュークリームについていた保冷剤を、道也に手渡した。
「今の、ごめんな」
はたいた左の頬が赤くなっていた。
「痛かったです」
「つい本気で叩いちまったから」
「高田サン、俺のこと、嫌いになりましたか」
「――今のは、僕がお前を嫌いで仕方ないってシーンだったろ」
脚本の本筋からは外れていなかった。四ツ谷もそう考えていて、
「使い古された演目だが、面白く仕上がりそうじゃないか。皆も今一度、新しい芝居に挑戦するつもりで台本を読み込んできてくれ」
と指示して、稽古をしまいにした。
誰もが、ひどい疲労感を覚えていた。
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