Ⅴ 兄妹

「お兄ちゃん、大きくなったら結婚しようね」


 夏空と、家々の木立の緑の間をビーチボールが何度も往き来する。透き通った緩い弧をキラキラと引きながら、兄の両手から幼い妹の胸元へ、妹の両手から再び兄の手もとへと投げ返される。ひと気のない家々が瀟洒しょうしゃに安らぐ土曜日の午前中、友也ともや友子ともこは玄関前の私道でキャッチボールに興じ続けた。放り上げられたボールが頼りなくふらふらとれて行きかけるたび、7才になったばかりの兄は軽く声を立てながら追いかけ、5才の友子がはしゃぎ返す。

 それから、二人は生垣いけがき横のレンガ造りのおしゃれな飾り台の日陰にちんまり寄り添って、一刻いっとき汗を拭く。息のはずんだ妹が、白いレースの帽子のひさしの下から甘えた声で見上げてくる。

「お兄ちゃん、上手ね」

「友子も、うまい」

「大きくなったら結婚しようね」

 七才にもなれば実の兄妹が結婚できないことくらい知っている。それに、どんなに仲が良くて、どれほど友子が大好きでも、そんな風に好きな訳ではないような気がする。

 見えない風が通り過ぎ、植え込みの葉影が、一瞬、友也のおもてを横切って行く。

「おいで」

 迷いはない。

 車の通らない物陰の横道へ回り込み、プラタナスと塀に囲まれた人目につかない隣家の裏庭の茂みへと誘う。妹の無邪気な駈足がついて来る。

「おいで」

 友也は張り巡らされた芝生の一画に立ち止り、足もとの木陰を指さした。

「そこに寝て」

 友子は嬉し気に 息をはずませたまま、その場所へ仰向けに寝ころんだ。きょうは一番お気に入りのチェックのスカートを着けている。友也は寄り添って隣に腰かけた。

「目をつむって」

 そう言うと、両方のてのひらで作った輪の中に柔らかな妹の喉を包み込み、一気に絞め込んだ。帽子が脱れ、少しの間、小さな体は手足をばたつかせたが、そのまま絞め続けているとすぐに動かなくなった。

 妹の顔は人形のようにパッチリと目を見張り、少し開いた唇のすき間から白く乳歯がのぞいていた。

 友也はスカートに付いた土の汚れをそっと払ってやる。乱れた髪の毛からも草れを払いのけ、やさしく頭をなでて両手を組ませると小さな胸の上に載せてやった。これでもう誰もふたりをけがすことはない。


「なぜ、あんなことをしたんだい?」

 催眠分析で見た夢だというホログラム映像の再生が終ると、ドクター古深こしんは友也に尋ねた。

「ぼくじゃない!!」

 友也は激しく叫んだが、もちろん自分である訳がない。断片的なその物語の中で、二人の子供たちはガラスの身体ではなく、この世の者たち同様の肉の身と白い歯を持っていたのだから。それは全く身に覚えのない、何ひとつ心当りのない断章に過ぎないはずだった。だが … 、何なのだ、何がこんなにも自分をおびえさせ、あまつさえ、妹を絞め殺した瞬間の、あの、おぞましくもなま暖かい感触をこの両てのひらにまざまざと甦えらせてしまったのだ —— 。友也は激しく取り乱し、見知らぬこの異界に初めて目覚めたあの瞬間ときのように恐怖に落ちた。

「なぜです!?なぜは殺したりしたんです!! —— 大切な、大好きな妹を」

「護るため … 」

「護る?何を??」

「かけがえのないものや、失いたくない物 … そういうことじゃないのかい?君はそれを知っているね?」

「何の話です!?どうかしています!」

「妹は君の夢のなかでひとつの象徴じゃないのかな?あの日の花束のように」

「花束?」

「事故に遭った時、君は花束を持っていたんだろ?だが、何のためにそれを買って、誰に渡すつもりだったのか、誰ひとりとして心当りがないらしい」

 古深の言葉は、友也をさらなる混乱に陥れ、世界や自分自身への疑いが再びはっきりとこうべもたげはじめた。ほのめかすような医者の口ぶりは、それなりに落ち着こうとこれまで必死で抗ってきた友也の心を否応いやおうなく浸食し続けて来る。この世界は一体何なのだ?

 友也はできる限り時間をかけて、じっとりと汗ばんだ化け物の体を引きずりながら、呆然と病室に帰って行った。


 ドアを開けると母がいる。

 雨粒をまとったガラス窓の傍らの、ベッドの枕元に置かれた小さな花瓶に、二輪だけ、黄と薄紫のアイスランドポピーに似た花をして映り具合を確かめていた。顔を上げて「造花よ」と頷きかけてくる。

「『本物』は苦手でしょ?」

 友也の口元から自分でも思いがけない微笑みが突然こぼれ落ちた。この女が仮に善意の生き物で、自分を本当に我が子だと信じて気遣ってくれているのだとしたら、その的外れな心遣いが、少し切なく憐れにさえ思えてきた。紙や合成樹脂でも有機物であることに変りはない。無機物なら塩か、水晶の花にすべきだろう。

「ありがとう、なまものよりはずっといいよ」

 それは、だが、確かに事実ではあるのだ。同じ有機体でも合成樹脂は生きた植物ほど生々しくはない。異質ではあっても、植物や動物や、自分自身の肉体ほど気味悪くは迫ってこなかった。そう言えば、この世界でも、虫を気味悪がる一部の者たちがいるということになっている。設定としては素晴らしい。あの触覚ひげさき、もぞもぞと這う脚たちに潜む無数の毛先、友也には、そうした、己れの存在そのものに触れて来ようとする生命いのちという名前の、無気味な実存がひしひしと伝わって来るのだった。

「見て、母さん」

 友也はベッドに歩み寄る。母の横に立って頭の部分のガード枠のパイプの表面を人差し指でなぞってみせる。

「ほら、傷がある」

 見えない程度の浅いかすかなすり傷が幾本か塗装の上に遺っている。

「ここにも … 、あそこにも … 」

 視線は落したまま、我知らずのうちに、友也の意識がゆっくりと辺りを見回して行った。床から壁へ、そこから窓や柱、さらに天井へ、そして世界中へと … その全ての場所に気の遠くなりそうな数の傷痕がしるされている。

 いつ付いたのだろう。確かに、どの傷もみな、誰かが、何かをしていて付けたのだ。一つ一つが取り消せない証拠を彼に突き付けて来る。そこに誰かがいたこと、その時なにかが起きたこと … それが彼めがけていっせいに関係を迫って襲いかかってくる。この世界はそういう所なのだ。

 母親がささやいた。

「独りでいたいの?」

「 … わからない」

「そう … 」

 母親の目が友未の瞳の奥をまともににのぞき込む。

「あなたは知っている?最近私も疲れているの。あなたが私を『母さん』と呼ぶからよ。あなたはお芝居してるわね?私はあなたを知っている。でも、あなたは私を知らない。それで良いの。無理しないで。いつかまた、きっと会えるから」

 恐ろしい考えがふと友也の背後を通り過ぎた。これは全て自分の妄想ではないのか。現実の自分は実際にこの世界で事故に遭い、記憶を失って、ありもしない幻影に囚われ、こうして怯えているだけではないのか。否、否、否、これはみな罠だ。全ては異形の者たちによる演出に過ぎない。

 いつかまた、きっと会えるから —— それがもし、彼を欺こうと企むこの異世界の大芝居の台詞の一部だとしたら大したものではないか。

 ヒステリックな内心の迷走を断ち切るために友也は話題を振った。

ゆうちゃんのことを教えて」

友子ゆうこ、ちゃん … 」

 母の言葉がすっと退くのがわかる。

「この間、見舞いに来てくれたけど、どんな人?」

友子ゆうこちゃんは … 、死んだわ」

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