054

 年月ねんげつ、二〇八〇年、五月二十三日。


 曜日、木曜日。


 時刻、午後二時十一分。


 場所、熊本大学黒髪キャンパス工学部情報電気電子工学科棟A‐205号室。


 俺は穴が空いて停止している仲間を見詰めていた。


 白衣を着て吉良と名乗ったその仲間。


 その仲間が完全に停止しソファに横たわっている。


 目は開いたまま。口は閉じたまま。倒れることなくリクライニングチェアに収まっている姿は芸術の域に達していた。


 もしくは芸術と見間違えるほどの計算を尽くして人形ひとがたの姿を保ち続けたのだろう。


 俺は素早く、不定形の座標を目測で特定する。


 一つ目の任務完了。


 俺は少しずつ吉良に、いや不定形に近付いて行った。WITH(ウィズ)の加護が無くなった今、何が起きても認識されることなくこの世から俺は消え去ることになるだろう。


 慎重に一歩ずつ。


 近付くにつれ見えた事があった。吉良の胸に空いた闇のような暗い穴は、幅は小さくではあるが脈動していた。


 振動よりも適切な表現だと思う。暗く何も無いその穴は未知の生物いきものと遭遇している気分にされた。


 不安。


 不気味。


 気持ち悪い。


 恐怖を煽るにはこれ以上に無い、『次にどう動くかわからないもの』だった。


 だが机のすぐ側まで来ても、脈動しているだけで何も起こることはなかった。


 けれども覗くことすらしたくない。


 ましてや、穴に手を突っ込む猛者などいればそれは人智を超越した狂人だろう。


 と、そこで俺が吉良の胸に空いた穴を真視真視まじまじと観察していると、視界の端に妙なものが写っていた。


 ものというか、現象か。


 それを妙と言うのは、いささか大仰かもしれない。しかし二つ目の任務は『吉良の周囲で穴の他に異変がないか調べてこい』だった。


 その無造作に開かれた、サイドワゴンの二段目の棚は、何者かが物色した跡──言うなれば白石由人が何かを物色した跡──であるのは明確だった。


 他に異常はないか俺は慎重に調べる。


 ほったらかしにされた丸椅子、時刻を示すデジタル時計、そろそろ西日がきつくなってきた窓ガラス。よく目を凝らしてみたが、白石由人が入って来るまでと


 二つ目、任務完了。


 以上をって、全ての任務完了。退散ののちに報告。


 俺は部屋を出て、地上にまで降りることにした。穴は直径三十センチ程だったので百メート近くは離れないとダメだろう。俺は白川沿いをWITHと交信できるまで歩くことにした。


 歩き切った。報告だ。一応無形電話エアフォンで通話しているように見せかけた。


「座標は熊本大学白髪キャンパス工学部情報電気電子工学科棟A‐205号室。四方の壁、北北西から右回りにニ・五八メートル。五・九五。十・三一。四・七二です。あと、停止体の側の二段目の棚が無造作に開けられた跡が残っていました」


「了解。では次の任務を言い渡す。A‐205号室に戻って、白石由人が入ってきた以前と物質が移動していないか、一応君の視認で確認してみてくれ」


 妙な任務ではあった。


 何かはあると思った。


 だから、吉良がいたリクライニングチェアにWITHが座って「やあ」と声を掛けてきてもあまり驚きはしなかった。


「報告します。白石由人が入って来る以前には存在しなかったWITHが存在しています」


「はっはっはー。相変わらず律儀だね君は」


「ところで何の用ですか。どうしてわざわざこんなキャスティングを?」


「いいじゃんいいじゃん。面と向かって話すのって楽しいし。ほら、こんな綺麗なお姉さんと話せる機会なんてめったに無いんだから」


 目の前のWITHはその言葉の通りに、完全に整った俺好みの年上の二十歳前後の、脱色しすぎて桃色ががったロングヘアで、肩幅柔らかなスーツを着ていて、それでいてネクタイはせず白いシャツをしっかりと覗かせる仕事帰りのラフな格好でリクライニングチェアに座り、肩肘を机に付けて誘うように俺を待っていた。


 端的に言って俺の好みだ。


 WITHはそれぞれのアンドロイド並びに昔は人間に対して、その姿、性格、声音、性別、全てを変えて出迎えてくる。


 白石由人のときは小学校六年生くらいの少女になるだろうとWITHから伝言がきていた。


 ……残念だ。これ以上アイツの評判を落とさないでくれ。


「どうした? 口元緩んでるぞ」


「いえ、アイツの……白石由人の目の前に現れたWITHを想像すると……想像できないんですけど残念だなって」


「彼の深層心理は少年だからねえ。子供って意味じゃないよ。純粋って意味だぞ。由人に言ったら怒るからね私」


「はあ。まあ任務として受け取っておきます。ところで、話し戻しますが何の用ですか。今回は冗談抜きでお願いします」


実存じつぞんを伝えるためだよ」


 実存?


 何?


「実存とは人間のこと。実存=(イコール)人間と考えてもらって構わない。。それをまた再び確認しようとしているだけさ。人間=(イコール)実存なら、わざわざ実存という言葉は生まれない。では人間と実存との記号としての意味の違いは何か。それは人間の命がただ一つであるということだ。そしてそれは人間、を表す。なぜなら人間が死んだら事実上世界と切り離されて、世界を認識することはできなくなる。死んだ人間にとって死後の生きてきた世界など世界へと変わる。それはすなわち、世界が終るということだ」


「異論ありますね」


 俺は実存について断定的に語る、目の前の女性の目を見ていった。


「俺だってワンピースぐらいは読んでます。受け継ぐ者がいれば、ある人間が生きていたことを語り継ぐ人間がいれば、人間の死と世界の終焉しゅうえんが同義になるはずはありません」


「それは生きてる側の勝手な妄想だろう」


「そうでなければ……人間誰しも不幸になります。死ぬのが怖くて怖くてむしろ生まれて来なければ良かったと思ってしまう人であふれ返るでしょう。そんな歴史聞いたことありませんね」


「私が言っているのは哲学でも倫理学でも道徳でも人生論でもないんだ。私が実存について話し始めたのは、哲学したいからなわけじゃないんだよ。とは言っても分かるはずないよね。今までずっと黙ってきた訳だし。今、この世界で起きている浸食を」


 浸食? 侵攻と吉良は言っていたはずでは。


 確か次元を超えた何かのWITHでも対応できない何かの、何かの侵攻だと。遠まわしに根本的な理由を付けるなら、その為に白石由人は月へと移転させるのではなかったのか?


 しかしそんな疑問も、WITHは一笑で否定した。


「私は全ての物質を司ってるんだぞ。そんなエイリアンの侵攻のようなものだったら、止める方法なんていくらでもあるさ。例えばほら」そう言って彼女は、今まで机に着けていた右腕を少し上げ、右手を軽く振った。するとそこにマジックにように、彼女の手にちょうどいい軽そうな小石をにぎっていた。


「これは百二十億光年先の月に良く似た衛星から拾ってきたものだ。表面の見た目は本当に月に似ている。クレーターのかたち、面積、深さまでほぼ同じ。そういうそれぞれ似たような星などこの宇宙にごまんとある。これを私ではなくて物理学者が発見したならばマルチバース宇宙論もきっと王道を辿っていたに違いないだろうね。しかし、この石は砕くと」そう言って、軽く握りめ、指の先で石を磨って砂にしていく。


「御覧の通り砂になって」そのまま砂を机の上へとこぼしていった。


 零していったはずだった。


 しかし机はまったく汚れなかった。


 まるでギアヌ高地のエンゼル・フォールのように、零された砂たちは、空気中へと溶けていった。


 俺は別に驚くこともない。俺だって、俺に限らず全てのアンドロイドがWITHの一部である。WITHが考えていることなど言葉を交わすまでもなく共有しているのだから。


「『何でそんな無駄なことするの?』みたいな無関心な顔しないでよ。お姉さん自演で酔ってる悲しい奴みたいじゃないか。いいんだよ見せて。別に太一君だけに見せてる訳じゃないし。これは公共放送みたいだね。そして、」


 WITHは手に残っていない砂を払うように手を数回すらす。滑らかで細長い、白く透けて見えるほどに美しい手を存分に見せびらかすように、俺をたぶらかすように見えた。


「ここからは地域放送だ。君にしか言わない。君以外のアンドロイド全てには情報を遮断して、今、君だけに伝えるよ。実存の真実を。実存の現在を。今、世界に、宇宙に人間は何人いる?」


「三十二人です」


「そう。かつて、私が宇宙へと送り届けた時には十億を保っていた人口は三十二人にまで縮小した。私が間に合わせで創ったコロニーでは次々と戦争や集団自殺、いずれにしろ人々は死を選び続けた。『殺してくれ』。この伝達がどれほど来たことか。そして私は人間の命令には逆らえない。だから、私は人が死んでいくのを人が望んでいるのだから仕方のない事としてただただ見守ってきた」


「随分勿体ぶって話しますね。別に地域放送にしなくても、誰もが知っている事実でしょう?」


 俺は頑張って冗句の隠喩に付いていった。頑張ってないと目の前の美しさに触れたくなってしまう。美しい。美しい。言葉にすることで触れたい欲動を抑え続ける。


「宇宙がね、しぼんできてるんだよ」


 不意に出たその言葉は聞き過ごした。


「宇宙が、人間の生息数に合わせて萎んでいるんだ」


 彼女は俺が聞き逃したことを受けてもう一度言った。


 宇宙が萎んできている。


 宇宙はそもそも全体のエネルギー量によって拡張か、平衡か、縮小かに向かっていく。それと人間とが何の関係がある?


 人間など宇宙のなかでは在るも無いも変わらない程のエネルギーなのでは?


「その疑問に対する答えは、実存。それしか考えられない」


 彼女は言った。笑いながら。破綻した論理を説明する無邪気な子供のように、彼女は笑う。


「今、人間は三十二人。つまり三十二人分の実存がある。三十二人分の観測がある。三十二人が死ぬと観測者がいなくなる。この世界があってもなくても変わらない世界へと変貌する。それは時間の停止を意味する。時間が停止するには空間が無くなる必要がある。この世界はパラパラ漫画じゃないからね。時間を消すためには空間を潰す以外に自然は選択肢を持っていないようで、果て果て、困ったもんだね。急に起こるんだもん。人口が千人を切った頃から急に。曖昧な何かが宇宙の果てから、宇宙のどこかから、次々に湧き出てきた。どうやら自然はこの世界を必要ないと判断を下したみたいだ」


 もしくは失敗作と断定し始めたのかもしれないね。


 彼女は笑ってそう告げた。


 笑いながら話そうと真面目だろうと固かろうと、変わらない結果の前に強情な表情をする必要はない。


 私たちは、俺たちは無力だから。


 所詮はただのモノだから。


 自然にはない玩具オモチャだから。


 どうやら自然から嫌われているらしい。


「さて、WITHとしてはこの事態、何としても退けたい。人間を守る。人間を守れない機械は必要ない。人間を守れない機械は自分から電源を切った方がいい。そのためのWITHだ。その為の私であり、その為の太一だ。だから、何としてでも白石由人を守り抜け。白石由人を守るためならば、を排除しても構わない」


「違う。どんなイレギュラーも排除しなければならない」


 俺は言った。WITHが言わせたのだ。言わせることで絶対になる。


 誓いは行動基準に刻み込まれる。


「安定を目指さなければいけない。俺は人間を守る。白石由人を月に移転し必ず生き残らせる」


「太一」


 彼女は俺の眼を覗く。碧い眼だった。普段は碧い眼ではない。夕陽でオレンジが混ざって碧い眼になっていた。


「何かもし、私の知らない所でイレギュラーが発生したならば太一に委ねる。もしイレギュラーが起こるとしたら白石由人の側で起こるだろう。それを太一が目撃したら私に報告してくれ。特に彼女は危険だ。まだ何か企んでいる可能性がある。特別は世界を変える力を持っている。変わってはいけない。彼女が望む望まざるに限らず、彼女が死のうが人間が死のうが変えてしまうのが特別だ。彼女は人間の欠片を持っている。それは物質を司る私よりずっと特別な存在だ」


 正直、彼女が羨ましいよ。


 WITHはそう言ってまた微笑んだ。



 そして、有り得ない事が起こった。


 俺はレーシングスーツに着替えた三人が出ていった後、夕刻後の闇に包まれ始めた新聞部の部室のなかで一人、目を開けた。


 逡巡から覚めた俺は決心した。


 椿久美を殺すことを、ここに誓う。

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