009

 僕が教室に入ったとき椿久美はまだ教室にはいなかった。


 あまりに早く着きすぎた。朝礼始まる前の空き時間、僕は教室で友人達と空中にグラフィックを映し出す画面でゲームをやっていた。いや、もっと正確に言うなら友人達がやっていたゲームの画面を見て、僕はあれこれ口を出していた。


 一回くらいやらせてもらいながらも、椿久美はまだ来ないのか、とどうしても教室のドアをチラチラ見てしまう。早く椿久美を確認したい、と気が気でなかった。


 朝礼開始は八時三十分、その二十分前、椿は二人の友人を連れて現れた。


 彼女はいつも通りに、まるで、昨夜に何もなかったかのように現れた。安心した。


 遠目から見ても、彼女たちの笑い声が聞こえることから普通に喋っているようだった。


 彼女は教室で僕の姿を見つけると、僕の方へてとてとてとっと歩み寄ってきた。


 久美が教室に入って来た時から、もうチラ見ではなく凝視してしまっていた僕だから、久美とそのまま向かい合う形になる。


 昨夜とは大違いの、表情のある椿久美だった。


「おはよう、ゆーくん」


「おはよう。昨日はあれから……」


「ゆーくんにお願いがあるの」


 彼女は僕の話を途中で遮った。


 お願い? お願いって僕に何かをさせるってことだよな。これはまずいパターンじゃないのか。もしかしたら二度と近寄らないで、などと言われるとか。昨日の今日だし十分ありうる。表では平静を装って繰り返した。


「お願いって?」


「ちょっと渡したい物があるの。荷物持って教室の外に来て。あ、荷物って全部だよ全部。全部持って教室の外に付いてきて」


「え、ああわかったよ」


 何もわかっちゃいなかったが、とりあえず首肯した。


 僕は自分の机に戻り、机の上に出していた筆箱をナップサックにしまい、両肩にかけ、机の脇に置いてあった部活用のトートバックを右手首に巻きつけ、右肘(ひじ)を折って肩まで持ち上げる。


 僕は教室を出る。ちらりと後ろを確認したら、久美も付いてきている。僕らは階段のある廊下の踊り場へと来た。


「いやー、呼びだした後でなんだけど、実は渡したい物なんて別にないんだよね。あはははは。実は別のことでお願いがあったの。まあ、あそこではゼッタイに言えないお願いだったんだけどね」


 にこやかな笑顔で久美は続けた。


「私と、学校サボってデートしよ」


「え? 学校サボるって今から?」


「うんそうだよ。そのためにゆーくんに自分の荷物を全部持ってさせたんだから」


 そういえば、久美も自分の荷物は全部持ってきてる。だが、やけに少ない。今日の彼女は教室に入って来た時からミニトートだけであった。僕がこの、突然のエスケープに賛同することを見越しての荷物の選択だったんだろう。


 しかしながら、熊本高校はごく普通の高校だ。昨日の朝に見られたように遅刻や欠席には当たり前に厳しい。


 久美は、僕がエスケープに確実に賛成してくれるとなぜ確信しているのか。


「で、でも」


「まあ、迷うのはわかる。私もこんなこといきなり言われたら『いや、何言っちゃってんの?』って思うと思う。でも、今日ゆーくんが私に付いて来ることは絶対なの」


 久美が崩さない笑顔で、確信めいた眼を僕に向け続けた。こちらの動きが止まってしまうような迫力がそこにはあった。


なのよ」


 更に深く久美は笑った。


 そうして、右手で僕の、トートバッグの巻かれていない左手をさっと握り、階段を下へと降りていった。彼女は僕を導いていった。僕は繋がれるままに、幾度か転びそうになりながら彼女に引きられていった。


「大丈夫。校門まで行っても朝礼開始五分前だからね。予備チャイムまでなら学校から出ても『忘れ物した』ぐらいにしか思われない。とりあえず私に付いてきて」

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