《番外》毎夜の習慣
魔王城の書庫の隣には、一つだけ小部屋がある。二つある扉のうち片方は書庫に、片方は廊下に繋がっている。ジュリアスはその部屋をほとんど自室のように使っていた。ジュリアスが五天魔将になるよりもずっと前から。
父が魔王城に持ち込んだ大量の本を読みたくて、ジュリアスは物心つく頃にはもう書庫に通っていた。本に夢中になりすぎるあまりたびたび書庫で夜を明かしてしまい、見かねたグリードとシリクスが書庫の隣の小部屋にベッドを用意してくれたのだ。泊まってもいいからせめてベッドで寝なさい、と。
当時は気にしていなかったが、小さな子供が夜遅くまで書庫にいて、よく強制的に自宅に連れ帰られなかったものだと今なら思う。父は研究室にこもっている日以外は、暗くなる頃には一度書庫に来て「ジュリー、僕は帰るけど、君はどうする?」と聞いてくれていた。父が来ない日は代わりにグリードが声をかけてくれていた。
五天魔将になる前は二日に一度は家に帰っていたが、五天魔将になってからはほとんど自宅に帰っていない。風呂は使用人用のものを使わせてもらっているし、食事はグリードとダルシオンの好意に甘えて使用人向けのまかないをもらっている。グリードは一緒に食事をとらないかと聞いてくれたが、さすがに気が引けて辞退した。
ジュリアスが読みかけの本を開きながら昼食をとっていると、りりん、りりん、と鈴のような音がした。その音は机の上に置かれた通信用の魔道具から鳴っている。繊細な花の形をしたその魔道具は、少し前に片割れをフィオネに贈っていた。荷物がようやく届いたのだろうと判断し、ジュリアスは本を閉じてからその花に触れる。
「はい、ジュリアスです」
『――レオンだ』
「ご無沙汰しております」
フィオネより先に連絡をしてきたのがレオンであるということに、さほどの驚きはなかった。最初にこの通信機を見せられたときから、レオンがよく思わないであろうことは予想がついた。レオンなら通信機を衝動的に取り上げることもあるだろうと。そしてレオンの次の台詞も、ジュリアスにはだいたいの想像がついていた。
『どういうつもりだ! 通信機を送ってくるとは聞いていたが、こんな装飾品のようなものだとは聞いてないぞ!!』
怒ったような声も台詞も予想どおりで、逆に笑みが浮かんでくる。通信機の向こうで扉の音がしたかと思うと、ぱたぱたと軽い足音も聞こえてきた。
『お兄様っ、待っていてくださいとお願いしたでしょう!? すみませんジュリアス様、兄に見つかってしまって。お久しぶりです』
フィオネの声だ。普段ジュリアスがカルラやグリードと通信するために使っている魔道具は、持ち運びやすさを重視して小型化してあるため、触れている者の声以外はほぼ入らない。だがフルービアが「少し大きくして、机に置いて話せるように音を拾う範囲を広げておいた」と言っていただけあって、扉の開閉音や足音も聞こえてきた。ならば自分も触れている必要はないのだろう、とジュリアスは通信機から手を離す。まずはレオンに怒りをおさめてもらうべきだろうかと考えながら、ジュリアスは口を開いた。
「レオン殿、私は」
『この形状に深い意味はないと言っても殺す』
「……」
意味があると言ってもレオンは怒るのだろうし、ないのも駄目ならもう解がない。どうしろというのか。いっそ黙っているのが正解だと判断し、話題を変えることにした。
「荷が無事に届いたようで何よりです。添えた文に記載のとおり、ディアドラ様とフィオネ様の分は制作を依頼中ですのでもう少々お待ちください」
『はい。ジュリアス様、このような美しい花を贈っていただきありがとうございます。とても素敵なので、部屋に飾らせていただきますね』
「気に入っていただけたのでしたらよかったです」
通信機の向こうから、俺はよくないだの、お兄様そろそろどいてくださいだの、レオンとフィオネの小声のやり取りが聞こえてくる。丸聞こえであることを指摘すべきか迷っていたら、ガタガタと家具か何かが動く音と足音がした。
『それで、ええと……手紙のお返事からしますね。女王陛下には、ジュリアス様から通信機を贈っていただいたことと、ディアドラ様からも贈っていただく予定であることはご報告しました。陛下は〝交流なら大いに結構、自由にやるといい〟とのことです。ただ一応、まだ周囲にはふれ回らないようにと言われています』
さっきよりフィオネの声が大きくなっている。レオンが通信機の前をフィオネに譲ったのだろうと察した。とはいえレオンは同じ部屋の中でしかめっ面でもしているのだろうなと容易に想像できて、ジュリアスはつい笑みを浮かべてしまう。
「そうですか。許可が下りたようで何よりです」
魔族には身分という概念がないので感覚としてはわからないが、人間は立場によって付き合う相手を変えるものであるらしい。だから必要なら女王に通信機の件は報告して許可を取ってほしいと手紙に書いて添えていた。フィオネに通信機を送ると言ってから、軽率な発言だっただろうかと気になっていたのだ。キルナス王国の女王なら好きにしろと言いそうだと予想していたが、許可が下りたと聞いて思いのほかほっとした。
『ジュリアス様もディアドラ様もお元気ですか?』
「ええ、元気にしております。フィオネ様とレオン殿はいかがですか? キルナス王国の様子は?」
『わたくしもお兄様も元気ですよ。国はまだ少し混乱しておりますが』
フィオネが語ったところによると、魔族と魔獣の襲撃が起きたことで、魔王との不戦協定の交渉を進めていたことは国民に明かさざるをえなくなったらしい。魔王の配下を国内に入れるとは何事だという意見が大多数ではあるものの、ディアドラやカルラに助けられた者たちの一部からは容認の声も上がっているとのことだった。
年配の者は誰もかれも魔族に否定的で、容認派はほぼ若者ばかりであるらしい。それを聞いて、まあそうだろうなと思った。ジュリアス自身はグリード以外の魔王を知らないが、先代魔王はフィオデルフィアでよく暴れていたとグリードや父から聞かされている。
キルナス王国で会議に使用していた通信用の魔道具は、持ち帰ってほしいと女王に言われたので執務室に置いてあった。しかしフィオネの話を聞く限り、話し合いが再開されるとしても相当先だろうとジュリアスはため息をついた。
◇
机の上に置かれたチェス盤の上には白と黒の駒が配置されていた。駒の数はもう六個まで減っている。部屋にはジュリアスしかいなかったが、相手の声が通信用の魔道具から響いた。レオンだ。
『キングをEの六へ』
「では、私もキングをGの六へ。チェックメイトです」
『ぐっ……』
チェスという遊戯は、フィオデルフィアでは有名なものであるらしい。レオンから一戦どうだと誘われ、チェスというゲームを書庫の本で見かけた気がして、探してみたら確かに本に載っていた。チェス盤と駒は、フルービアに本を見せて「こういうものが欲しい」と言ったら即作ってくれた。夢中になっていたはずの魔石加工の手を止めて。
初戦からジュリアスが勝ち続けているのだが、レオンは毎晩ジュリアスに挑んでくる。本来のルールとは違うらしいが、今日はジュリアスがルークとナイトを一つずつ落とした状態でゲームを開始することで、一勝一敗のいい勝負になっていた。
『ジュリアス、もう一戦やるぞ』
「私は構いませんが、レオンは明日、朝が早いのでしょう?」
『あと一戦やったら寝る』
「では、さっきと同じ配置から始めましょうか」
盤面の上に駒を並べ直してから終わったことをレオンに告げる。レオンも終わったと返してきたので、ジュリアスは駒に手を伸ばした。けれど思い直して通信機に目を向ける。
「先手は譲りましょうか?」
『いらん。駒を落としてるのだから、
「では――」
互いに駒の動きを言葉で示しながら、手元の盤面を進めていく。しばらく進めたところで、ジュリアスが再び「チェックメイト」と宣言した。
『くそ……おいジュリアス、明日も暇か?』
「暇ではありませんが、今日と同じ時間でしたら部屋にいると思います」
『ならまた明日連絡する』
「はい、おやすみなさい」
ガタと椅子らしき音がして、『フィオネ、俺は先に寝るがお前も寝ろよ。切るぞ』という声が聞こえてきた。レオンの声は少し遠い。
『お兄様。何度でも申し上げますが、その魔道具はわたくしが頂いたものなんですからね。そしてここはわたくしの部屋です』
『知っている。が、お前たち二人でなど使わせん』
『お兄様は毎日ジュリアス様と二人でお話されてるじゃないですかっ』
『俺はいいんだ』
『横暴です!』
レオンは切るとは言ったが、通信は繋がったまま少しずつレオンの声が遠ざかっていく。おそらくまた切り忘れたていで部屋を出る気だろうと判断し、ジュリアスは黙ってレオンが退室するのを待った。ややこしいことをする。兄の心境など一人っ子のジュリアスには理解できないが、相当複雑なものであるらしい。
俺は認めないなどと言いながら、毎晩連絡をしてくるのはレオンのほうだ。「もう帰国したのだから賓客ではないだろう。お前も敬称は外せ」と言ってジュリアスを名前で呼び捨てるようになったし、こうして通信を切らずに部屋を出ていくこともある。一体どうしたいのかと問うてもレオンは答えないだろうと思ったから、ジュリアスも聞かずにいた。
扉の開閉音が聞こえてきて、通信機の向こうが静かになった。ジュリアスがフィオネに声をかけると、「あら?」という声のあとに軽い足音が近づいてきた。
『お兄様ったら、切るなんて嘘ばっかり』
「レオンにも思うところはあるのでしょう。フィオネ様はお時間よろしいのですか?」
『はい。わたくしは明日、お休みを頂いています。ジュリアス様は?』
「まだ寝ませんので構いませんよ」
そうですかとフィオネが嬉しそうに言って、とりとめもない話をし始める。フィオネの話は半分以上がレオンのことだ。レオンは自分のことをあまり話さないが、フィオネがよく語るので、ジュリアスは彼の日常をだいたい知っている。明日はレオンの所属する第二騎士団と第一騎士団の合同演習があるらしい。
レオンが明日朝早く起きなければならないという話も、昨日フィオネから聞いただけで彼は一言も口にしていない。けれどジュリアスが朝の早さを指摘しても何も言わなかったし、そもそも昨夜フィオネが話していたときにレオンも近くで聞いていた可能性が高い。
フィオネの話はだいたい順序だってはいるけれど、時折脈絡なく話が飛んだり、ただの感想が混じったりする。雑談とはそんなものだが、ジュリアスはもともと、そういったとりとめもない話を聞くのは苦手なはずだった。けれどフィオネの話は不思議と心地よく、ずっと聞いていられそうな気がする。日中ずっと執務やナターシアの結界の魔法陣の解読をしているジュリアスには、出せる話題は多くない。それでもジュリアスが何か話すとフィオネはいつも楽しそうに聞いてくれた。
レオンやフィオネと毎晩話すようになって本を読む時間は減ったが、それを不快とは思わない。むしろ連絡を心待ちにしてさえいた。以前ならジュリアスは仕事の区切りが悪ければ夜遅くまで続けることもあった。しかしここのところはレオンが連絡してくる時間までには打ち切って部屋に戻ることにしている。レオンやフィオネと話すことが気分転換になっているのか、日中に煮詰まっていたところが翌日にすっと進むこともあり、仕事の効率は以前より上がっている。
『それで、その時お兄様が――』
フィオネがレオンの話を続けていると、急に扉の開く音がした。
『おいフィオネ! いつまで話してるんだ、そろそろ寝ろ!』
『お兄様こそ寝てください!?』
時計を見るとレオンが一度退室してからもう一時間が経っていた。レオンは先に寝ると言っておきながら今まで起きていたようだ。
――まったく、兄心というのはややこしい。
ジュリアスはふっと笑ってから、通信用の魔道具に手を触れる。
「そうですね。そろそろ今日は切りましょうか。おやすみなさい。フィオネ様、レオン」
『ええっ。……はい、おやすみなさい。ジュリアス様』
フィオネの声はやや不満気だったが、ジュリアスは通信を切った。どうせまた明日連絡するとレオンが言っていたし、もういい時間だ。
あとほんの少しだけ本を読んだら寝ようか。そんなことを考えながら、ジュリアスは机の上の本に手を伸ばした。
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