遺言…… ④
――彼が無事に帰るのを見届けた後、わたしはリビングの前を素通りして、父が休んでいる両親の寝室へ向かった。
「――パパ、具合はどう?」
「絢乃か。里歩ちゃんと桐島君は……?」
「彼はついさっき、里歩はその少し前に帰ったわ」
父は「そうか」と言って、ゆっくりベッドの上に体を起こした。
わたしは父の体がつらそうだと思い、室内のソファーからクッションを持ってきて、父の腰にあてがった。
「ああ、ありがとう。少し楽になったよ」
父は喜んでくれたけれど、本当は何かプレゼントを用意しておけばよかったなぁと後悔した。
「ううん、わたしにできる親孝行なんて、これくらいしか……。ゴメンね、何もプレゼント用意できなくて。どこか痛いところがあったら、さすってあげようか?」
「いいのかい、絢乃? じゃあ……背中を頼めるか?」
「うん、分かった」
わたしは父の服の上から、痩せた背中をゆっくりさすってあげた。
背骨のゴツゴツした感触が
「パパ、すっかり痩せちゃったね……。ゴメンね、わたしが代わってあげられなくて……」
絶対に泣くまいと決めていたのに、この時ばかりは
「絢乃、泣かないでくれ。お父さんまで悲しくなるじゃないか。お前がそうして優しい子に育ってくれただけで、お父さんは幸せだ」
「……うん」
わたしは鼻をすすりながら頷いた。
「わたしも、パパとママの子供に生まれて幸せだよ」
「それはよかった。――そうだ。お父さんから絢乃に、とっておきのプレゼントがあるんだよ」
「うん……? なあに、プレゼントって」
父は覚悟を決めたようにわたしをまっすぐ見据え、一言ずつを噛みしめるようにして言った。
「お前に、グループの経営に関する、全ての権限を一任する」
「え……、それって」
「お前がお父さんの……いや、〈篠沢グループ〉の正統な後継者ということだ。お父さんに残された時間は少ない。絢乃、あとのことはお前に任せたよ」
「…………えっ!? そんな……」
あまりの事態に、わたしは言葉を失った。頭がついていかなくて、どう返せばいいか分からなかった。
〝後継者〟ということはつまり、父亡き後わたしが会長になるということ。
まだ早すぎる。高校生が片手間でやっていいものか? 母はこのことについて納得しているのか? ……色々な思いが一瞬のうちに頭の中をグルグル駆け巡って、呼吸さえうまくできなかった。
「これは、お父さんの遺言だと思って聞いてほしいんだ。お前のことだから、お母さんの心配をしてるんだろう? だがな、お母さんもこのことは納得しているから、心配はいらない」
「え……? ママも……納得してるの? でも、他の親戚の人たちは――」
母方の親戚――篠沢一族の中には、グループ企業や本部の役員を務めている人が数多くいて、その人たちは二つの派閥に分かれて争っている。母やわたしに味方してくれている〈加奈子派〉と、母に敵意を向けている〈
兼孝さんというのは亡き祖父の弟さんで、わたしの
要するに、まだ若い婿養子の父が、どうして大叔父をさしおいて会長になるのか、という古臭い考え方を押し通したかったらしい。
とすれば、父の時と同じく、もしくはその時以上に〈兼孝派〉の人たちからの風当たりが強くなるだろうとわたしは思ったのだけれど……。
父は、そのこともちゃんと分かっていたらしい。
「それも心配ない。篠沢一族の事実上のトップは当主であるお母さんだ。お前にはいちばん心強い味方がついてくれているんだよ。だから安心しなさい」
「……そうだね」
父も言ったとおり、当主である母は経営陣にこそ参加していないけれど、一族の頂点にいるので誰よりも力がある。わたしには偉そうに振る舞う〈兼孝派〉の人たちも、母には
そんな母が味方ということは、わたしにとって〝鬼に金棒〟なわけである。
「――絢乃、サイドテーブルの
「うん。――これって……遺言状?」
わたしは抽斗から取り出した一通の封筒を凝視した。
末期ガン患者である父が書いたとは思えない、力強い筆ペン文字で〈遺言状〉と表書きがされていた。
「ああ、そうだ。キチンとお父さんの署名と
「パパ……」
さすがの〈兼孝派〉にも、法律を敵に回す度胸まではないだろう。――そう言って、父は笑った。
「内容は通夜の席で、弁護士が公開することになっているが……。経営に関することはさっきも話したとおり、一切をお前に託す。グループで所有している土地や建物の権利、株式もすべてお前に譲る。あと、お父さん個人の財産は、お前とお母さんとで半分ずつ相続するようにしてある」
何だか娘のわたしがほとんどを相続して、配偶者である母が相続するのは父の財産――それも半分だけという内容がしっくりこなくて、わたしは「それでいいの?」と疑問に思ったけれど。
「……ママもその内容、知ってて納得してるんだよね?」
「ああ。お母さんは『経営に関わるつもりはない』と言ってるからな。この家や土地の所有者はお母さんだし、お前のお
「そう……なんだ」
母にしてみれば、十分すぎるくらいの内容だったろう。もしかしたら、自分には父から何も遺されなくても構わない、くらいの気持ちだったのかもしれない。
それにしても、驚くべきはわたしに遺された遺言の内容だった。
〝財閥の後継者〟というわたし自身の立場を
ところが、続いて発せられた父の言葉に、わたしはさらに驚かされた。
「それからな、絢乃。このことは遺言状にも書いていないんだが……、桐島君にお前のことを託したんだ。『いざという時には、絢乃を守ってやってほしい』とな」
「えっ、桐島さんに? どうして?」
わたしが目を
「お前の好きな男というのは、桐島君のことだろう? 彼なら信頼できる。安心してお前のことを任せられる男だとお父さんも思ったんだ」
「…………うん」
どうやら、父にはお見通しだったようだ。わたしも隠していたつもりはなかったのだけど……。
「これで分かったろう? 絢乃、お前はひとりではない。この先
父がわたしの覚悟を問いかけてきた。
「できる」か「できない」かではなく、「やる」か「やらない」か――。とすれば、答えは一つしかなかった。
だって、父の跡を継げる人間は、わたししかいなかったのだから。
「……正直言って、自信はないけど。わたしなりに精一杯やってみる」
少々頼りなく聞こえたかもしれないけど、これがわたしにできる精一杯の決意表明だった。
「そうか、やってくれるか。ありがとう、絢乃。その返事を聞けてお父さんは安心した。これで心置きなく旅立てるよ」
「…………」
父が満足そうに笑みを浮かべた。その笑顔があまりにも安らかで、この世の人ではないように見えてしまったわたしの両目から、ギリギリまでどうにか堪えていた涙が溢れた。
――パパ、まだ死なないで。わたし、パパに教わらなきゃいけないこと、まだまだたくさんあるんだよ……。
そんな言葉の代わりに、涙は後から後から
「絢乃……。お父さん、疲れたからもう寝るよ。おやすみ」
「……うん。パパ、おやすみなさい……」
困ったような顔をした父に泣きじゃくりながら挨拶を返し、わたしは両親の寝室を後にした。
父はこのまま二度と目を覚まさないかもしれない。そんな悪い予感がして、絶望すら感じて、泣き
涙で視界が
母と史子さんに気づかれる前に涙を拭おうとしたけれど間に合わず、二人は大号泣していたわたしを見るや、血相を変えて飛んできた。
「――絢乃!? ちょっとどうしたの一体!? そんなに泣いて、一体何があったの!?」
史子さんはどうしていいか分からず、オロオロしていた。
「ママ……。ぱ……パパが、ゆいご……遺言じょ……っ! わた、わたしに遺言状見せてね、あとのことは任せたって……っ!」
わたしは泣きながら、父に言われたことを懸命に母に伝えようとした。でも途中でしゃくりあげながらだったので、うまく言葉にならなかった。
「パパ、もう死んじゃうの……? もうダメなの……っ!? わたしまだ、パパにおしえてもらいたいこと、いっぱいあるのに……。何も返せてないのに……っ!」
一度口を開いてしまったら、それまで表に出さなかった感情が一気に
「絢乃、ちょっと落ち着いて! パパは大丈夫! 大丈夫だから、ね?」
母はあやすようにわたしの背中をさすりながら、何度も「大丈夫、大丈夫」とおまじないのように言ってくれた。
「絢乃……、今日までよくガマンした。偉い偉い! 頑張ったね、つらかったね。もうガマンなんてしなくていい。思いっきり泣きなさい」
「う……っ、うわぁーーああーー……っ……」
わたしは小さい頃に戻ったように、気が済むまで声を上げて泣いた。
母も気づいていたのだ。わたしがその日までずっと泣くまいと心に決めて、努めて明るく振る舞おうとしていたことに。その裏には抱えきれないくらいの悲しみや様々な感情が隠れていたことに。
たとえそれが、十七歳の娘の
「――ありがとう、ママ。もう大丈夫」
数分後、ようやく泣き止んだわたしは、真っ赤に泣き
「そう? スッキリした?」
「うん……。心配かけてゴメンね。自分ではもう、覚悟できてたつもりだったの。でもダメだった。パパの悟りきったような表情を見たら、張りつめてた糸がプツンと……」
――わたしと母はソファーに腰かけて話をしていた。
「分かるわ。そのうえに遺言状だもの。あなたにとってはダブルパンチだったんでしょうね」
「うん、そうなの。――ねえママ、パパは遺言状の内容、ママも納得してるって言ってたけど。ホントなの?」
「もちろん本当よ。パパがあれを書いた後、『これでいいか?』って確認されたもの」
「そう……」
父の言葉は、わたしを安心させるためのウソなんかではなかったのだ。
「大丈夫よ、絢乃。ママがあなたの敵に回ることは絶対にないから。里歩ちゃんも応援してくれるだろうし、桐島くんだってきっと、あなたの支えになってくれるわ」
「……うん、それはパパから聞いた」
彼の名前が出ただけで、わたしはつい顔が緩んでしまった。
それにしても、母は何故、あの場で彼の名前を出したのだろう? 彼のことは遺言状には書かれていなかったし、わたし自身もその話はあの夜が初耳だったはずなのに……。
――とはいえ、わたしには頼もしい味方が三人もいるのだと分かっただけで、心がスッと軽くなったことだけは確かだった。
そして一月三日、わたしはとうとう〝その日〟を迎えた――。
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